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楽曲解説 -その他-

 邦楽の様々な楽曲の由来や解説などを知り、より演奏を楽しむ為の考察です。

ページ内 目次:
 ・宗悦流の尺八
 ・宗悦流尺八 伝承曲
 ・尺八起源法茂久録
 ・その他関連

宗悦流(ソウエツリュウ)の尺八

 幕末頃に近藤宗悦(コンドウソウエツ)によって興された尺八の新流派。俗名に関西流、明暗宗悦派とも。三曲と深く繋がり、関西を中心に莫大な勢力を誇り、多くの名演奏家やその後の尺八発展に寄与した(残念ながら、その三曲の曲相も廃れてしまった)。その反面、三曲や俗曲に力を入れたため本曲がほとんど吹奏されず、残念ながら伝わっていない。さらに、宗悦没後は振るわず、流れを汲む藤田松調(フジタショウチョウ)が松調流を奈良(後に大阪)で興し、宗悦流出身の虚無僧・小森隆吉に学んだ初代中尾都山は都山流を興した。
 宗悦流の有名な名士としては、真島鶴堂(清爽軒鶴翁とも、出雲出身)、塚原玉堂(京都出身)、桑原如堂(大阪出身)、上村雪翁(六花軒、大阪出身、元の号は雪興か?)、俣野真龍(初代?という資料があるが、おそらく2代ではないかと思われる。京都、製管師、明暗真龍派。※史考には宗悦流とあるが属していたかには疑問が残る)など。
 近藤宗悦が作った(作らせた)尺八は、旧京都明暗寺(明暗真法流)のものよりもやや太めで、音色も澄んだ音がする。特徴として竹の表皮が剥がされている。

近藤宗悦(尺八長者、清頂軒、道信):1821年~1867年
 幕末期の直轄領・長崎出身の尺八奏者。中国笛(明清楽)をよく吹いたことから「チャルメラ宗悦」とも呼ばれる。尺八の吹き方は、楽器が水平になるほど持ち上げるという独特のもので、一部の人達には今も受け継がれている。
 はじめ京都明暗寺で33世首座・玄堂観妙や役僧の尾崎真龍(オザキシンリョウ)より尺八を学んだが、本曲は同門の勝浦正山(カツウラショウザン)にまかせ、もっぱら外曲(三曲・俗曲)に力を入れた。大阪に移った後は、多くの富商・宮中などの財界人と交流を持ち、関西一円で一世を風靡した宗悦流を創始した(その時期の剛腹な振る舞いから尺八長者と云われた)。長崎の商人で宮中にも繋がりのあった富商・小曽根乾堂(コゾネケンドウ、長崎松寿軒の檀家総代でもあった)は宗悦にとっての最初の有力後援者。
 長崎時代には同世代で当時、小曽根家に出入りし亀山社中を興した坂本竜馬や中岡慎太郎とも面識があったと見られ、倒幕期には宮中や岩倉具視と海援隊・陸援隊・天誅組などを繋ぐ連絡係も勤めたといわれている。天誅組事件、但馬生野倒幕挙兵などに関わり、禁門の変(蛤御門の変)に連座したというが旗本の食客となって難を逃れたという。また元虚無僧の新撰組隊士・葛山武八郎(カツラヤマタケハチロウ)とも面識があったと思われる。
 大阪伊丹にて46歳で没。墓所は、大阪天満橋にある善導寺。病没ということになっているが、正確な死因は不明、あるいは殺害された可能性も、1867年といえば坂本竜馬が暗殺された年でもある…。

 明治期の宗悦を知る人からの言によれば、「公会で八面の箏の中に尺八一管で八段を吹いた所、その席では糸に消されて尺八の音が聞えなかったが、室外に出ると尺八の音のみもっとも超越して聞えた」といい。また秘蔵の吹奏管は、出来は天然のままに委ねたもの、その竹材の見事なことは前後あの位立派な竹はみたことはない、という(竹友回顧録)。

古川竜斉:近藤宗悦の養子になったことのある人物で盲人の筝曲家。
 近藤宗悦は三曲との繋がりを強くしつつ、芸で後を継がせるために箏の人だが養子にしたと云われている。その為、近藤夫婦から随分と責められ艱難辛苦の修行をさせられたという。古川竜斉の姓は、はじめ父親の木村、のちに小谷、、次に宗悦の近藤、最後に古川。近藤宗悦の菩提である善導寺に永代供養の費用を納めたのはこの人である。

宗悦流尺八 伝承曲

・尺八独案内/上村雪翁 著・矢島誠進堂 出版
閲覧先URL:近代デジタルライブラリー 「尺八独案内」
 フホウエ譜で、俗曲を中心に多少の本曲も記載されているが、本曲の目録解説では菅垣(スガガキ)をクダガキやクワンケンと読んだり、鹿の遠音(シカノトオネ)をロクオンインと読んだり散々である。これは著者が無知なのか出版社のミスなのかは不明だが、宗悦流がいかに本曲に疎かったかを物語っている。
 書籍内にある鶴の巣籠は、胡弓から再移曲されたもので、砧地の部分を整曲したもの。これを元に上田流が本曲鶴の巣籠を作った。

・尺八雑曲集 : 曲譜正確/上村雪翁 著・矢島誠進堂 出版
閲覧先URL:近代デジタルライブラリー 「尺八雑曲集 : 曲譜正確」
 フホウエ譜で、俗曲・三曲を中心に多少の本曲も記載されている。

・宗悦流本手音譜集(全)/上村雪翁(六花軒)著
フホウエ譜で明暗対山の本曲が数曲書かれている。樋口対山整曲前のものなのか虚鈴に鈴ゴロの手が残っているのが少しかわっている。裏面には琴古流や錦風流の本曲譜が後から手書きされている。ここにのっている鈴慕三谷鹿の遠音をもとに上田芳憧が上田流の本曲として編曲した。上田流古典本曲に上村雪翁伝として残っている鹿の遠音は、琴古流の鹿の遠音からの編曲であるようであり、明暗真法流の鹿の遠音とは似ても似つかない。

※伝えによれば近藤宗悦は明暗真法流の流れを汲むので、本来であれば真法流の本曲が書かれそうなものであるのだが…。

尺八起源法茂久録

 それ尺八には天地の徳、全く備わるものにして、即ち管の円きは天の徳なり。管の方なるは地の徳なり。歌口は半月にて月の形、管尻は円(にて)日の形なり。表穴は春夏秋冬なり、一季九十日宛を四つに合して三百六十日なり。裏穴は土用とす。四季に交えて十八日宛なり、故に四季の一季を節にて云えば一季七十二日宛なり、故に合して三百六十日となる天地自然の妙道なり。春夏秋冬に裏穴の土用を交えて指を運ぶ故に無量の音律生ずるなり。五つの穴は木火土金水なり、指の変化するは相生相克なり。十二律は十二月なり、七節は南北天地人なり。七節に表裏あるは四、七、二十八宿を表す。定寸は尺八寸にして、一越の調子なり。表裏倍にして三尺六寸なり三十六禽を表す。また表裏及び四方倍すれば七十二候なり。歌口に陰を形どり、管尻に陽を形どるは陰陽合体なり。天地の徳、全く備わりたる人、これを吹く時は天地人の三方に叶い、万国に類なき妙器と云うべし。

その他 関連

 元治元年(1864年)に作られた「尺八名家懇望人記」という番付には宗悦流を中心に関西・関東の当時の名人達の名前が列挙されている。それを後年改めたものだと思われる。※今日有名な、樋口対山・勝浦正山・中尾都山らの一世代前(師匠世代)の名人達が中心。また、この番付は本曲の序列ではなく、外曲の優劣であると思われる。

宗悦流 番付表、尺八修理工房幻海

※↑の図をクリックで拡大します。

想後見:近藤宗悦(尺八長者、清頂軒、道信)
勧進元:真島鶴堂(はじめ村田嘉竹[※1] 門下、のち近藤宗悦 門下。清爽軒・鶴翁)
行司:津田雪呈(村田嘉竹 門下)

東大関:杉山(村田?)素翁(村田嘉竹 門下)
前頭:天野鶴皐(真島鶴堂 門下)
前頭:塚原玉堂(近藤宗悦 門下)
前頭:川越鶴暁(真島鶴堂 門下)
前頭:伊藤虎眼(2代目俣野真龍の弟子、製管師)
前頭:大藤鶴雄(真島鶴堂 門下)
世話方:酒井嘉月(村田嘉竹 門下)

西大関:吉田一調(琴古流)
前頭:樋口対山(はじめ西園流、のち明暗教会・明暗洞簫会)

【宗悦流、琴古流以外の名士】
頭取:山本華遊(京都)
小結(他の史料では大関):高橋華江(大阪)
頭取:華繭(かけん、京都)
前頭:華流(大阪)
※京・大阪を中心に号に華の文字を用いる人物が多い。宗悦や嘉竹とは別の派閥があったものと思われる。東寺の蚤の市にて華山作の7寸管を発見。歌口はじめ製管の作為を見ても明暗真法流の流れを組むものであり、同華組に関連する人物であると考えられる(註 戦後頃の都山系の製管師に華山がいるが作りの特徴からして別人)。
前頭:大谷虹觜(ぶんし、播州。製管した竹も残る)

[※1]村田嘉竹(ムラタカチク)
 宗悦流が興るまでの大阪の主流尺八門戸。もとは京都の尺八指南所出身の見聞役(おそらく武士階級以外の尺八習熟者)であるが、のちに大阪へ移り尺八指南所を設けて大いに評判をふるい、多数の名人を輩出した。

その他の楽曲

一閑流 琴古流 根笹派錦風流 讃佛歌/御詠歌 忍流 西園流 天吹 一節切 三節切 明暗真法流 明暗対山 九州系 宗悦流 松調流 古代尺八・雅楽尺八 その他

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