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尺八コラム 限界突破!

尺八本曲は音楽か、お経か 2015/3/30

 つい先日、とある会で諸先生方と相席している時に、その席で「明暗本曲は音楽か、お経か」という議論が耳に入ってきた。
 この論旨は、音楽であった場合、音程であったり伝承であったりを(連管などをする場合には)音楽的に揃える必要があるのだろうか。それに対してお経であると割り切った場合には、そういった音楽的な音程やリズムといったことは全て無視し(極端な話、八寸と九寸を連管していても問題なしと考え)、ただ念仏として献じるつもりで吹くことが正しい姿であるのか、というある種、古典本曲の本質をつく議題であった。
 そもそも古典本曲、普化尺八というのは普化宗という禅宗の一派の流れを汲むので、一言で「音楽」と割り切るには、あまりにも宗教的・精神的側面が強い。その為、こういった音楽(技術や理論)なのか精神(宗教や観念)なのかといった疑問の狭間で、自分のやっていることの方向性を、思い悩みやすいのだろう。
 これに対してある方はお経であると談じる。なので音程的なことは基本的に考える必要がなく、それぞれの思いのままに吹けば良いのではないか。ただし、その際の音は、導師(ここでの導師は、お経などを教える際に音頭をとり、他の僧の音程を導く存在。尺八の場合は稽古をつけてもらう師匠といっても良いかもしれない)がいるので、おのずとある程度の音楽的な均整は取れるだろう、と。
 この回答に対して、質問者は「一理あるが、それでは伝統が消えていくのでは」と半分納得し、半分不満といった感じであった。

 この議論は、生半な時間では解決しないし、それぞれによって回答が変わるように思う。しかし、私も少しばかり古典本曲を勉強し、尺八学など研究するにつれ、最近このように考えるようになってきた。「古典本曲は、”祈り”である」と。

 このような考えに至った理由は2つある。一つは過去の名人と呼ばれる方々の演奏。もう一つは、ご高齢で今にも斃れそうでありながら真剣に竹に向かう、そんな方々の姿だ。
 前者は、もう数年前になるが始めて音源を聞いた時、「名人と呼ばれる人でもこんなものか」と正直、そう思った。その時は音楽的に聴いていたので、音程は悪いし、同じ曲でも吹くたびに少しづつ違っていたり、かなり伝承から逸脱したその人独自の吹き方になっていたりしたからだ。それが最近、「久しぶりに聞いてみるか」と思い立って聴いてみた印象は、以前とはまったく違うものだった。音程や吹き方は相変わらず勝手気ままだが、その中には曲や竹に向かって真剣に取り組む姿勢があり、それがひしひしと音を通して伝わってきたからだ。その時、ふと「あぁ、これがこの人の”祈り”の形なんだなぁ」と心にスッと入って来た。
 後者は、ご高齢の方との談話・稽古や献奏大会などを通して、以前から何となくだが感じてはいた。音は鳴らないところがあるし、息も足りない、なのに何ともいえない味がある。それは尺八が好きで好きでたまらない、そういった真剣な姿であり、やはり一心に曲に向かうということなのだと思う。これは音楽的な思考で聴いていたのでは決して気付くことはできない。
 それは、テクニックがすごく、良く吹ける演者が手前味噌な演奏をしているのとはワケが違う。もっと高次元な行為であり、これこそ音楽の原初の姿、”祈り”なのだろう、と。こういった感覚は、意外にも西洋音楽的思想が浸透した現代の日本人よりも、外から見る海外の方のほうが”民族性”や”伝統”として理解しやすいのかもしれない(拙著「まるごと尺八の本 第7章」に関連した意見を述べたものがある)。

 ただし、この事にのみ囚われていたのでは、伝統や継承ということが意味を成さなくなる。これはあくまでも個人の”祈りの形”であるのだ。しかし、その個人の”祈りの形”に同感し、同調して残したいと思う後継者が出てくるからこそ、伝承が、文化が生まれる。
 例えば、三谷という曲がある。尺八曲の中でも最古の部類に含まれるこの曲は、地域や流派で数種類もの曲が存在する。根元は同じであったであろうこの曲も、その”祈りの形”を数多の伝い手が残したいと考え、経過する事で分岐し、緩やかに変化させていった。

 つまるところ、尺八曲や本曲、もっと広くいえばあらゆる芸能は、”祈り”であって音楽的なものも、お経的なところも全てを内包しているのではないかと思う。それは、神仏に捧げるものでもあり、人を楽しませるものでもあり、自分を省みてもっと上手くなりたいと思うことでもあり、過去・現在・未来を繋げるものでもある。そういった心を形作り、具現化するために、我々は尺八とああでもない、こうでもないと向き合っているのではないだろうか。

追記 かなり変った人で口も悪く、あまり参考にならないかもしれないが、源雲界という尺八吹きは著書で下記のように書いている。

 本曲は観念である総じて阿字(味)である…本手は梵唄声明詠歌である故に仏教因果律を解せ無い者は、笛は吹けても精神は徹底しない場合が生じる。ある時、浦本(浙潮)氏、小梨(錦水)氏らと一緒に虚空を吹いたことがあるが、何れも吹き方は別々であるが、その法則精神に変わりは無い(それが本曲である)。ただし本手になると決して勝手気ままを許すわけには行かぬ。
 …(宮川如山が)30年の行化の精神を阿字に投入したので(阿字観)、神保(政之助)の三谷は神保の阿字、勝浦(正山)の三谷は勝浦の阿字である。ただしこれは本曲として吹く場合で、本手として吹く場合には…経文成門典がはいるのである。
(明暗尺八界の奇人 源雲界集より)

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