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尺八コラム 限界突破!

利休と尺八 2015/8/17

 千利休といえば、誰もが知る茶の湯の大成者。それまでの日本人には、明確に認識されていなかった「侘び寂び」という新たな美的認識を知覚させ、新たなものに価値を見出し、また生み出していった巨人である。

 千利休。本名は千宗易(せんのそうえき)、雅号を抛筌斎(ほうそうさい)、別名を田中与四郎(田中はもともとの名で父親の代に千に改名)。有名な利休の号は、禁中茶会のために正親町天皇(おうぎまちてんのう)から与えられた居士号であり、その意味は「名利、既に休す(名誉や財産に執着しない境地)」あるいは「利心、休せよ(慢心せず、使い古され先が丸くなった錐の如くの境涯を目指せ)」であるといわれている。利休の号は晩年のもので、その生涯のほとんどは宗易と名乗っていた。非常に大柄な人物であったともいう。
 大阪の堺出身の商人であり、本業は納屋衆(倉庫業)を営み、屋号を魚屋(ととや)という。この魚屋で輸入され、人気を博した高麗茶碗を特に魚屋茶碗(斗々屋、ととやぢゃわん)と呼ぶ。これはそれまで日常使いの雑器とされていたものに、新たな価値を見出した好例である(当時は、唐・高麗物のみを至上とするような風潮が普通であった)。

 織田信長が天下布武を掲げ、堺を領有するようになると、その信長に茶頭として仕え、御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう。茶の湯を流行させて政治的に利用した政策。従来の戦果報酬は土地を付与するのが普通であったが、茶器や茶会を開く許可を与えることで報酬の替わりとした)を大いに支えた。この頃、一節切の大森宗勲(おおもりそうくん)も信長に出仕していた形跡があるので、面識があったものと思われる。
 信長が本能寺で討たれた後は、天下人である豊臣秀吉に仕え、茶頭筆頭として御茶湯御政道を支え、さらには多くの大名家と師弟関係を結び、その政治的存在感は次第に重さを加えるようになっていった。天正13年には、関白秀吉の禁中茶会に奉仕し、その際、宮中へ参内するために正親町天皇から利休の居士号を賜った。天正15年には北野大茶の湯を補佐。天正18年の小田原征伐に随行し、当時、出奔し北条家へ仕えていた弟子の山上宗二を口利きで秀吉と面会させ、助命してもらおうとするが、北条幻庵(幻庵も一節切の名手であったという)へ義理立てする山上宗二は処刑されてしまう。
 この頃より、秀吉と齟齬をきたし、天正19年には大徳寺の金毛閣(三門)に利休の木像が安置され(打ち果てていた三門を利休の寄進で再建できたことへの寺からの感謝であったが…)、その草鞋履きの木像の下を潜らせたことが不敬であるとのことから蟄居、反省がないとして切腹を命じられた。そして、利休はイコンとなる。

遺偈(辞世の句):
人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル 我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐる わがえぐそくのひとつたち)
今此時ぞ 天に抛 (いまこのときぞ てんになげうつ)

意訳:
人生七十年 (茶の湯に)専心してきた
その私の行ないが 先祖も子孫も仏も神も犠牲にするかもしれない
だが私の(心に)持つ 鎧兜と一振りの太刀よ
今この時全てを天になげうって 我が思い(茶の湯と美)を成就させようぞ

 利休が生み出した、赤・黒の楽茶碗、二畳敷きの草庵茶室・待庵(たいあん)、黄金の茶室、竹花入れ、茶杓…。利休が見出した、数多の名器。
 それらの中で特に注目したいのが、利休が自らの手で削りだした尺八切りと呼ばれる竹花入れである。利休が造った竹花入れには、一重切の園城寺(おんじょうじ、三井寺の正式名称)や音曲、二重切の夜長、などの数々の名品があるが、其の中に一際、異彩を放つ「尺八」と名付けられた花入れがある。
 見た目は、ただの竹を切り放したようであるが、何ともいえぬ気品と厳かな佇まいがあり、特に節の取り方と割れを正面にもってきているところがまた何とも良い。現代では、そのような割れたもの、欠けたものなどの侘びたものを良いと思えるが、当時はそういったものを受け入れる素地はなかった。その不均一、不足の美を利休が認識させたのである。
 この竹花入れは、利休が関白秀吉の小田原征伐(1590年)に同道した際に、当時から竹の名産地と呼ばれていた韮山から、取り寄せた竹で作ったと云われている。その花入れを秀吉に進上したところ、随分気に入って秘蔵していたが、利休の死罪の際には怒りのあまり投げ捨てて割ったとの逸話もある。

 この尺八花入れは、竹の根っこ側を上に向ける逆竹寸切り(さかだけずんぎり)という独特の方法が用いられて作られている。
 一節切(当時は尺八とも呼ばれていた)も同じく、根っこ側を歌口の方へ持ってくる逆竹で作られるのが通常である。利休はこのことを知っていたがために「尺八」と名付けたのかもしれない。そう考えれば、尺八花入れの上下への節の取り方と一節切の節の取り方に共通点があるようでもある。
 そうであるならば、利休は一節切の製作方法まで知っていたことになる。それは、大森宗勲に聞いていた為なのか、それとも尺八がそれほど世間一般に普及していたからなのだろうか…。また利休は「術は紹鴎、道は珠光(技術は師の武野紹鴎から学び、その心は茶の湯の祖ともいうべき村田珠光に学んだ)」といっている。その村田珠光は、尺八・一節切を好んだ一休禅師に学んでいたことでも知られている。何かしら尺八に触れる機会があったのかもしれない。ちなみに先の遺偈の一文「祖佛共殺」は、臨済義玄の滅宗興宗(殺仏殺祖)の教えであり、一休の殉じた精神でもある。このことからも、利休にとって一休は尊敬していた人物であったように思われる。
 少なくとも美の権化に認められるほどの美しさが尺八には内包されているということを、我々は自信にし、研鑽しなければならない。

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