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尺八コラム 限界突破!

一節切と雅楽尺八 2016/2/6

 近年まで雅楽尺八(古代尺八・正倉院尺八)と一節切とは、どちらかというと関連がないもの、と考えられてきた。飛鳥時代に雅楽とともに伝来し、平安時代に貴族文化として隆盛していた雅楽尺八は、平安中期~後期頃には廃れてしまい。その後、全く関係なく一節切がぽっと生まれた、というのだ。
 しかし、一節切と雅楽には非常に多くの共通点がある。残念ながら雅楽尺八に関する書物や楽譜などは残っておらず、また一節切についても伝承されておらず、書物からの再現となるので、やや正確さに欠けるきらいがなくはない。が、現代に伝わっている雅楽と一節切の書物、再現した楽器などから、二つの共通点を明らかにし、今後の研究の助けにしたいと思う。

 雅楽と一節切との共通点と考えられるもの。

・調子名が同じ
・唱歌するために音名がカナ文字
・楽曲が前奏・曲・終奏といった構成になっている

 まず、一節切と雅楽とでは、主要に用いられている調子が「黄鐘調(A)・双調(G)・盤渉調(B)・一越調(D)・平調(E、※雅楽の太食調は平調の呂律違い)」と共通している。
 もちろん、使われている旋法が正確には異なるので完全に一致しているというわけではないが(調子・旋法についてはコラム「調子考・続調子考」を参照のこと)。少なくともその名称が江戸時代中期頃までは一緒だということは、面白い点である。
 このことは、当時の日本で一般的な調子名だから偶然に同じものだった、とも考えらえる。が、それだと同じように雅楽で使われている楽箏から進化したお箏の調子名が、早くから異なっていることに違和感を覚える。私は一節切が箏よりも雅楽の影響を強く受け、その影響を長く残していたのではないかと考える。

 次に唱歌するための音名がカナ文字であることも、一節切と(雅楽で使用されている管楽器)篳篥や竜笛とで共通する点である。 
 ただ、こちらも完全に一致しているというわけではなく、一節切が音名と唱歌譜の音名が同一(例えば音名のフと唱歌譜に書かれるフは同一音)であるのに対し、篳篥・竜笛の場合は指孔の音名と唱歌譜の音名が異なる(例えば、篳篥の指孔名の六は、唱歌ではチなどと歌われる。そして指孔音名はその横に付記される、つまり簡単にいえば2通りの記し方があるといえる)。
 とはいえ、このカナ文字を音名にあてるというのは、なかなか興味深い点である。弦楽器と違って管楽器の場合、単純に指孔に数字を割り振り、それを音名に当てはめたのでは、指孔の開閉パターンが複雑過ぎて、とてもじゃないが楽譜に表記しきれない。そこで文字をそれぞれの音に割り当てたのだろうが、その際、平がなではなくカタカナを用いたのも、前者に比べ後者がやや文字が簡略化されていることと、注記などを設けた際に音名と文章との区別がつきやすいためであったのだろう。そのようなシステマティックなものを雅楽伝来~発展の数百年に渡る長い時間を掛けて構築していったのであろうと考えられる。
 そのような合理的に考えられた楽器名称や記譜法を、一節切が鎌倉~室町頃に自然発生的に生まれ発展したとする場合、(カナ文字を)音名に用いるといったことを独自に作り出すことができただろうか。古代尺八から直接的に伝わったと今はまだいえないし、どれほどの影響があったのかも今は断定できないが、少なくとも雅楽の楽理を参考にしたと考える方が自然であろう。

 また多くの楽曲の構成が、「前奏・曲・終奏」と3部構成であることも、一節切と雅楽の共通する部分である。一節切の場合は「音取・曲・返し」、雅楽の場合は「音取・当曲・止手」となっている。
 それぞれ、一節切の音取(ねとり)は、音の調子を取るための決まった短い前奏曲。曲は、それぞれ独自の曲。返しは、曲の終りを示す決められた終始音型。雅楽の音取も、音の調子を取るための決まった短い前奏曲。当曲(とうきょく)はそれぞれの独自の曲。止手(とめで)も曲の終りを示す決められた終始音型。と、同じ意味である。
 単なる3部構成であるということは、当時の文化や流行といったことを考えれば、それほど特筆すべきことではないのかもしれない。しかし、ここで重要なのは、一節切・雅楽ともに前奏と終奏は決まった音型を用いるということで、真ん中に挟まれる曲(当曲)のみが完全なオリジナルであるという点である。
 例えば、荒城の月でも、民謡でも、J-popのどんな曲でもいいが、これら全ては前奏も歌の部分も終り方もそれぞれ異なっている。(特殊な編曲をしない限り)荒城の月の前奏から民謡を歌い出すことはできないし、民謡からJ-popのような終り方をすることもできない。しかし、一節切と雅楽の場合、どんな曲を吹こうとも必ず前奏と終奏とは(例外もあるが)同じ形になるということである。
 このことからも一節切と雅楽が無関係であるとは考え難い。

 上記は、残っている文献などに見られる楽譜や楽理を元に推論したものであるが、残っている史料や逸話からも一節切と雅楽との深いつながりを感じることができる。
 日本に残る音楽書の中でも古く重要なものであると考えられている、雅楽師である豊原統秋(トヨハラノムネアキ)が記した體源抄(たいげんしょう、永生9年、1512年に記す)には、雅楽器の他に一節切にかんする記述も見られる。
 これは逆のケースではあるが、一節切の楽譜書である紙鳶(いかのぼり)の巻末には、徒然草219段(※下記に記載)に書かれている大神景茂(オオミワノカゲモチ、オオガノカゲモチ)という雅楽師の楽器に対する向き合い方を語った「呂律の、物に適はざるは、人の咎なり。器の失にあらず(音が上手く鳴らないのは人のせいであり、楽器のせいではない)」という言葉を引用している。
 また随分と時代は近世になってしまうが、谷狂竹は奈良を托鉢中に村田扇翁(雅楽師の家系とも)いう人物に尺八曲を教わり、それを元に大和調子ができたとも云われている(後年、習った曲を再び村田扇翁に聞いてもらった際には「そんな曲は教えていない。」といわれたという。それは、あるいはもともと雅楽の曲であったのかもしれない。その他にも雅楽師から尺八を教わったという話はいくつかあったかに思う。

[補足]
豊原統秋=室町後期の雅楽師で笙の家系。1450~1524年
大神景茂=鎌倉後期の雅楽師で笛の家系。笛の名手として知られる。筑前守。大神姓は奈良県桜井市の大三輪神社とその近郊に由来する。
※雅楽師の家系で、御神楽の多家(太家)、笛の大神家、篳篥の安倍家、笙の豊原(豊家)が、代々専業としている。また伝統的に京都方は右舞(右方、高麗楽)、奈良方は左舞(左方、唐楽)を取り仕切るといわれる。

 雅楽尺八から一節切が影響されていたと仮定した場合、逆説的に新たな可能性が導き出されるものとして、

・雅楽尺八から国風歌舞化に伴い一節切が生まれた
・一節切の音価が雅楽と同じようである可能性がある
※ただし江戸時代以前の雅楽と同じ、と考えるべきか。
・一節切譜の曲部分は繰り返され、好きな時に返しを吹いて終止する可能性がある
・雅楽尺八の音名がフホウエヤであった可能性がある

 一つ目の「国風歌舞化に伴い~」というのは、拙著「まるごと尺八の本」でも少し触れているので割愛する。
 二つ目の「一節切の音価が雅楽と同じようである可能性がある」であるが、一節切に関する楽譜史料は多く残っているが、伝承は途絶えてしまっているがために、残念ながら音の長さについては正確なことはよく解っていない。西洋音楽のように四分音符や十六分音符といったようにその音の長さを明確に表す記譜法が完成していればよかったのだが、一節切の史料では抽象的なものも多く、なかなか判然としない。逆にいえば、演奏家の”気分次第”ということであったのかもしれないが…。
 ただ、もしも雅楽から強い影響を受けていたとするならば、”楽譜上の1文字が2拍”という可能性もある。また雅楽では、例えば越天楽のような曲では、当曲の演奏を何度も繰り返し、羯鼓(かっこ)と呼ばれる指揮者の役割をする太鼓の合図で止手に移って終始する、といったパターンも見られる。一節切の曲は一つ一つが非常に短いので、中にはそういった繰り返しを行なっているものがあるのかもしれない。
 とはいえ、江戸~明治時代頃に雅楽家も集められ、それぞれの伝承を統一化させた明治選定譜というものが作られたというので、どこまで参考にしてよいのかは解らないが…。これらを検証するためには雅楽古譜(博雅三位譜など)も研究する必要があるだろう。

 上記のように一節切が雅楽からの影響があったとするのであるならば、逆説的に雅楽尺八の解明にも繋がり、それは失われてしまった雅楽尺八の音名が一節切と同じ「フホウエヤ」であった可能性も出てくる。
 雅楽尺八に関する楽譜や史料といったものは、現代には残念ながら伝わっていない(発見されていない、という可能性もあるが…)。雅楽尺八の楽譜があったとされる最も新しい記録は、870年~924年頃の平安時代に活躍した管弦長者の貞保親王によって、当時失われていた王昭君という雅楽曲を尺八譜から復活させた、というものである。
 源氏物語の末摘花の段の中にも「さくはちのふえ」という一文が見られるが、これについては、当時流行していたとも、すでに廃れていて宮中が華やいでいた時期を懐古するためにいれた、とも云われておりやや不確かである。つまり1000年ごろにはすでに失われていた、失われかけていたと考えるべきであろう。
 だが、もしも一節切と雅楽との繋がりが濃厚であり、雅楽尺八の名残りを一節切が残していたのであれば、音名が「フホウエヤ」であった可能性もまた濃厚である。現在、その片鱗ともいうべき一筋の光を私は見つけ調査している。調査結果については、また記すつもりである。

【徒然草 二一九段】
四条黄門(しじょうのこうもん)命ぜられて云はく、
「竜秋(たつあき)は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、
『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊か(いささか)いぶかしき所の侍るかと、密かにこれを存ず。その故は、干(かん)の穴は平調(ひょうぢょう)、五の穴は下無調(しもむちょう)なり。その間に、勝絶調(しょうぜつちょう)を隔てたり。上の穴、双調(そうちょう)。次に、鳧鐘調(ふしょうちょう)を置きて、夕(しゃく)の穴、黄鐘調(おうしきちょう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいちょう)を置きて、中の穴、盤渉調(ばんしきちょう)、中と六とのあはひに、神仙調(しんせんちょう)あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』
と申しき。料簡の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」
と侍りき。
他日に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、
「笙は調べおほせて、持ちたれば、ただ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに、口伝の上に性骨(しょうこつ)を加へて、心を入るること、五の穴のみに限らず。ひとえに、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律の、物に適はざるは、人の咎なり。器の失にあらず」
と申しき。

訳文:
四条黄門(四条隆資、藤原隆資。権中納言、最終位階は従一位大納言。後醍醐・後村上天皇に仕え、南朝方として足利軍と戦い戦死)がおっしゃられるには、
「豊原竜秋(笙の名人で藤原隆資の師。豊原統秋の先祖)は、音楽の道に関しては素晴らしい人物である。先日、竜秋が来て次のように言っていた。
『浅はかなことかもしれず極めて口にしにくいことですが、横笛の五の孔には、少し信用のならないところがあると思っています。その理由は、干の穴は平調(E)、五の孔は下無調(F♯)。その間に、勝絶調(F)を隔てて上の孔が双調(G)、次に鳧鐘調(G♯)を置いて、夕の孔は黄鐘調(A)となります。その次に鸞鏡調(B♭)を置いて、中の孔が盤渉調(B)、中と六とのあいだに神仙調(C)となっています。このように横笛は一律に調子を揃えていますが、五の孔のみが上の間に調子を持たず、指孔の間隔だけは他の孔と等しいので、その音色が不快になりがちなのです。なので、この孔を吹く時には、必ず口を遠ざけます。遠ざけないと、他の楽器に合わないのです。五の孔を上手く吹ける人は多くありません』といっていた。優れた意見であり、強く興味を引かれる。先達が後進を畏れるとは、この事である」
と語った。
その話をどこからか聞いた大神景茂が後日に来て言った。
『笙であれば調律さえ合っていれば、後はただ吹くだけです。横笛は、吹きながら微妙に調律を合わせていくものなので、その孔ごとに口伝の教えがあるだけでなく、吹き手の感性が必要であり、それは五の孔のことのみに限ったことではありません。単純に口を遠ざければいいというわけではないのです。悪く吹けばどの孔も良い音はならず、上手な人ならば、どの音も上手く吹き合わせることができます。音の高低や調子が他の楽器と合わないのは、吹き手の責任であって、楽器のせいではないのです』
と申した。

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