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尺八コラム 限界突破!

三千里外絶知音の解釈 2017/5/16

一従裁断両(竜)頭後
尺八寸中通古今
吹起無上那(真)一曲
三千里外絶知音

 「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、……」で始まる四打の偈(明暗両打の偈)と共に、尺八及び虚無僧関連の書物などによく見られる漢詩に上記のものがある。
 素直に読み解くいならば、「竹の両端を切った尺八寸の中は、今も昔も変りなく。一曲を無上(無常)のものとして吹けば、遙か遠く(過去・現在・未来)までも届く」といったもののようになる。
 ただ最近この漢詩は、これだけの意味ではないのではないか、と思うようになった。

 上記漢詩の作者は、宇治吸江庵に住まう尺八隠者の朗庵(風穴道者、別字に朗安、露安、魯庵、龍安など多数)であるという。また、朗庵と親交のあった一休宗純(狂雲子)も似通った漢詩を残している。友好のあった間がらや良く知られた詩などでは、わざと遊びを利かせて少し詩を変えて披露する、ということがある。なので、この場合、どちらかを題材にしていることは間違いがない。が、どちらが先で後か、ということは解らない。この他に、一路叟(朗庵の別号とも。朗庵・一休共に交友のあった堺の尺八吹きとも※虚覚えなので要確認)と呼ばれる人物の作というものもあるようである。
 少なくとも、この七言絶句(七言と四句からなる詩)が、尺八に関わる者にとって、尺八の魅力を余すことなく表現している美しい銘文であることはすぐに解る。また、この詩を作った人物が、かなりの教養と芸術観、尺八に精通していることが感じとれる。

 前述したように、この詩は尺八や虚無僧に関する書物(例:明暗寺縁起や虚無僧縁起などの虚無僧の由来に関する縁起物。また朗庵に関するものなど)によく引用されている(ただし、伝え聞きの為なのか少しずつ異なる)。それだけであるならば、尺八に関連する詩として伝聞(伝文)されたということで話は終わるのだが、さにあらず。
 少し朗庵や一休の時代よりは後になるが豊原統秋(雅楽師で笙の家系)の記した日本三大楽書のひとつである「体源鈔」内にも見られるし、制作年度はよくわからないが狂言の「楽阿弥(内容は、尺八好きの尺八好きによる狂言)」の中にも見られる。
 前者、「体源鈔」内には一節切に関する記述も見られる(現在の1尺8寸に連なるような尺八に関する記述は見られない)。このあたりから、この詩を引用したのであろうが、100年ほど後であるのに、残っていることに驚きである。また当たり前ではあるが、朗庵や一休の時代より100余年、豊原統秋よりも250年以上前の、同じく日本三大楽書のひとつである「教訓抄(狛近真 著、1233年)」には、この詩はない(※後述に関連)。
 後者、狂言の「楽阿弥」。こちらは、現在は失われてしまったが、「尺八の能」と呼ばれる観阿弥・世阿弥と同時代の増阿弥が得意としていたものが元ではないか(あるいは増阿弥をモデルとした話の可能性もある)、とも云われている。増阿弥のことは「風姿花伝」内にも記述が見られる。他に能の中には「籠尺八(※)」と呼ばれる尺八の名を冠するものも見られ、並々ならぬ関係性がみられる。この「楽阿弥」の中では、朗庵の作としてダイレクトに用いられている。
 少なくともこの詩が同じ芸能者とはいえ、他分野の教養人にも知られ、影響を与えるほどに広まっていた(あるいは流行した)、ということがうかがえる。

※「籠尺八」の内容は、尺八本体というよりも王昭君を題材にしたものである。ただし、王昭君といえば雅楽曲の中にもあり、それを貞保親王が尺八譜から復活させたという云われもある。これを偶然というには、出来過ぎている。

 ここまでがアウトラインであり、尺八関連の書籍にも書かれていること、ちょっと調べれば解ることである。
 今回はさらにここから詩文を味わってみたいと思っている。ただし、私は漢詩に精通しているわけではなく、古典に詳しいわけでもないので、全容を味わおうとしても一遍には中々難しい。部分々々でエッセンスを抽出しながら、味わっていきたいと思う。

 その中で、私が一番感心をよせているのは、最後の七言である「三千里外絶知音」というところである。素直に読むならば「三千里にはこの音の他にしるものはない(遥か遠くまで音が響く)」といったところか。ただ、後半部分の「絶知音」、「絶」という一文字。他の流麗に尺八のことを謳っている部分と違って、この一文字にだけ妙な強さというか硬さのような違和感を覚えてしまう。
 さらに理解を深めるために細かく「三千里」「外」「絶」「知音」と単語に分ける。三千里は、キロに直すと約11,700㎞。ただしこの場合、純粋な距離は重要ではなく、「遠い」という意味だと思っておく方がいいだろう。さらに「外」は「三千里」に掛かっており、「”非常に”遠い」と強調として用いられているのだと考えられる。
 次に「知音」であるが、これは「ちおん」ではなく「ちいん」と読む。また、これは単に「音を知る」という意味だけではない。こんなエピソードがある……。

 古代中国、春秋時代の晋の国に、伯牙(はくが、伯雅)という琴の名人がいた。その伯牙には鍾子期(しょうしき)という友人がいた。
 口数の少ない伯牙は、ある時、高い山に登るかのような気持ちで琴を弾いた。鍾子期はそれを聞いただけで「すばらしい。まるで泰山のように険しく高らかだ」と評した。またある時、伯牙が川の流れを思い浮かべながら琴を弾くと、鍾子期は「まるで長江や黄河のようにゆったりと広大だ」と評した。まさに以心伝心。鍾子期は伯牙の気持ちを言葉ではなく、心で理解し誤ることがなかった。そして、伯牙もそのような最良な理解者を得たことを喜び、深く感謝したという。
 しかし、鍾子期は病を患って、帰らぬ人となってしまう。知己の死を悲しんだ伯牙は、弔いの曲を弾いたのち、琴の絃を断ち切り、生涯、二度と琴を弾かなかったという。
 この話から、唯一無二の親友のことを「知音」といい、その友を失ったことを「絶絃(断絃、四字熟語としては「伯牙絶絃」、他「伯牙、琴を破る」など)」という。

 この「知音」という言葉は、仏法の真髄を心と心で伝えるものとして、釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう、※)」や「以心伝心」と共に禅宗などによく用いられている。
 また、この知音を用いた(「三千里外絶知音」に似た)言葉として、「三千里外有知音」という言葉も禅にはある。意味は「友、遠方にあり」で、これは孔子の「友有り遠方より来たる、また楽しからずや」に通ずる。
 こういったところを禅僧である一休であれば、十分に知っていたと考えるべきであろう。もしかしたら、当時の教養人の間ではごく当たり前の知識であったのかもしれない。

※「拈華微笑」=昔、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)で釈迦が説法をするということで弟子や大衆が集まった。どのようなありがたい仏の教えを受けられるのかと、大衆は楽しみにしていたが、釈迦は難しい言葉を用いようとはせず、黙って一輪の花を示した。大衆やほとんどの弟子たちは、それが何なのかといぶかしんだが、ただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)のみは、それを見て釈迦に微笑みを返した。それを見た釈迦は、摩訶迦葉が仏法の心(悟り)を受け取ったと悟り、法門を託したという。

 それらを踏まえて「三千里外絶知音」を見れば、この言葉が単に「三千里にはこの音の他にしるものはない(遥か遠くまで音が響く)」という意味とは、全く違うものを読み解くことができると気付くだろう。
 「絶知音」は、「絶絃(断絃)」に通ずる。そして、三千里外(遠方)に掛かる。つまり、親しい友の死別を暗示している。
 ここで、改めて朗庵と一休にそれぞれ似た詩が作られていることに注目したい。違いを見るために例として朗庵、一休の他に体源鈔、虚無僧縁起に掛かれているものを列記する。

伝 朗庵:
龍頭切断而以来、尺八寸中通古今、吹出無常心一曲、三千里外絶知音

一休:
自従裁断両頭語(来)、尺八寸中通古今、吹起無常心一曲、三千里外絶知音

体源鈔:
龍頭切断而以来、尺八寸中通古今、吹出無常心一曲、三千里外少知音

虚無僧縁起:
一従裁断両頭後、尺八寸中通古今、吹起無上那(真)一曲、三千里外絶知音

 このようにいくつかを並べてみると、少しずつ違いはあるものの体源鈔は朗庵を、虚無僧縁起は一休を伝えていることが解る。

 まず、朗庵と体源鈔タイプの詩の場合、最後の「絶知音」と「少知音」の部分以外はほぼ一緒である。
 ただ、朗庵の方は、掛け軸に朗庵とする人物象と讃として詩をが書かれたもので、本当に朗庵が書いたものと同じかどうか、現すものかどうかは不明瞭である、と研究ではいわれている。体源鈔のものは、一休作ということで伝わっているようだが、詩の文面を見ると朗庵のものに近い。
 私個人としては、体源鈔の方が(朗庵作か一休作かは定かではないが)オリジナルに近いのではないかと思う。また、そうであった場合、色々と辻褄が合うように思う。
 「龍頭(りゅうとう)」は「両頭(両方)」の音に近いもので、龍を頭に持ってくることで縁起のよいものとして詩に花を添えているのだろう。竜頭蛇尾では、始めは勢いがあって尻すぼみ、といった意味になってしまう。が、そもそも龍頭は舟の先端や釣鐘の頭の部分に用いられたりと開運や道開きを意味しているという。また、おそらく「道を開きたい」という思いもあったのであろう。なので、ここでは縁起物として詩頭を龍頭として飾っているが、本来は両方という意味であると考えた方がいい。
 意訳してみると、「(竹の)両端を切断して以来、随分と長く尺八に通じ、無常の心を一曲に吹き出しているが、それを理解する人は(今も昔も)少ない」というところであろうか。
 もしも「絶知音」出なく「少知音」である場合、朗庵タイプの詩は、「尺八を長らく吹いているが、理解者が少なくてさびしい」といった、どちらかというと尺八礼讃というよりは、己の不遇をかこつような意味合いのものに感じられる。

 次に一休と虚無僧縁起タイプの詩の場合。朗庵タイプと違って、一句目が「自従裁断両頭語(一従裁断両頭後)」と完全に変えられている点以外は、少しずつ用いられている漢字の違いはあるものの大きな差異はない。
 ただ、朗庵タイプと一休タイプの大きな違いとして、詩文の巧みさというのが如実に表れている気がする。(私は詩に関しては素人であるが、)どこにそれを感じるかというと、それは声に出して読んだ時の読みやすさである。朗庵タイプは声に出して読もうとすると、読みづらいし何となく重たい。それに対して、一休タイプは、最初から最後まで詩が流れるように、跳ねるように進んでいく。一休は、詩についても超一流と聞くが、なるほどこういうことなんだろうな、と思う次第である。
 一休と虚無僧縁起でも用いられる漢字が少しずつことなるが、おそらく一休の方が古い時代の人物であることから原本と考えてよかろうかと思う(ただし、こちらも転写の過程で、少しずつ字が変わっている可能性はある)。
 「自ら(竹の)両端を裁断し、長らく尺八に通じ、無常心の曲を吹き起こす、最高の理解者が遠く彼方へ行ってしまった」と、追悼の意味がある詩なのではないかと思う。

 上記のことから、私の推論として……。まず、朗庵が(若い、あるいは一休と知り合う前後に)詩を作り、一休と友好を温め、のちに朗庵が死に、その追悼に一休が詩を変化させて贈った、それが狂雲集などを通じて教養人などの耳に入り、文化芸能などに取り入れられた。といったようなところではないかと思う。
 朗庵については、その人物が実在するのかどうかさえ、疑問視している人も少ないはない。が、このように詩心を味わえば、間接的ではあるが朗庵の存在、人間味をほんのうっすらとではあるが感じることができるのではないだろうか。

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