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尺八用語集 -尺八のことわざ-

 尺八の演奏技法や諺などの用語集。尺八の極意として口伝で伝えられる重要なコトワザ。これを知ることで尺八に対する向き合い方が変わってくる。

首振り3年、コロ8年、玉音10年

 「桃栗3年、柿8年」をもじったことわざ。桃や栗、柿が実をつけるまでに時間がかかるように尺八を1人前に吹けるようになるまでには時間がかかるということ。

息を吸うが如くに吹く

 音を出そう出そうとすれば、それだけ粗くなり心が乱れる。そして、それが音となって伝わっていく。息を出そうとするのではなく、吸おうと意識する事で適度な緊張が残り、音が澄んでいく。特に甲音を小さい音で吹こうとすればするほど、微妙な息と唇のコントロールを必要とする。このコトワザの意識をもてば、格段に解消するだろう。

乙強く、甲弱く。メリ強く、カリ弱く。

 もともと乙音に比べ甲音は大きな音がなり、カリもメリに比べて大きな音がでやすい。しかし、大きな音を大きく鳴らしているだけでは上手くはなれない。小さな音を大きく、大きな音を小さく吹いてこそ、そこに味がうまれるのである。

乙張りをつける

 メリハリをつけること。乙にしろ甲にしろ、メリにしろ、カリにしろ、一音一音を違うものとして吹き分けること。

甲の音を乙の口で吹き、乙の音を甲の口で吹く

 甲だからといって緊張せず乙と違いをつくらない、乙だからといって緩み過ぎず甲と違うことをしない。甲乙は二つではなく一つ、同じように自然体で吹けなければならない。

音を殺して吹く

 本曲では、音の始まりと音の終わりを尊ぶ。特に音の終わりをどのようにするかで、曲の表現・良し悪しが変わる。音をいかに消すかを考えさせる為の言葉。

頭は強く、中弱く

 音の頭、拍子の頭などは強くはっきりと吹き、中間は弱く自然に吹く。そうすることで、音の強弱・陰影・濃淡といった違いが起こり、流れとなって過ぎてゆく。

無音・音無し

 尺八に関わらず多くの楽器は、時に音が鳴っている時よりも音が鳴っていない時の方が、多くのものを含んでいることがある。その無音の音を大切にする事が重要である。

一音成仏

 一音成仏とは、一声で仏になる、または聴いた相手を仏にするということである。仏とは悟りを得た境地、すなわち尺八を一吹きして禅の境涯に至ることを標榜している。
 一音は別に円音ともいい、仏の声を現す。つまりは尺八の一音が仏の声でもあり、経文でもあり、また空でもある。

吹け吹くな、鳴らせ鳴らすな

 尺八の極意の一つ。全く逆のことをいっているようであるが、この言葉の中に真理がある

尺八を学ぶに曲の吹き方のみ覚えることなかれ

久松風陽の「独言」より

 尺八を学ぶに曲の手続きのみ覚ゆる事と思う人多し、心得違いの甚だしき也、メリカリ程拍子専要也、手続きのみ覚えて後、己が見識をもって吹は上手のうえにあり、初心より中品までの輩ゆめゆめあるべからず、全てその師たる者を真似るを第一とす、故に師を選ぶを要として悪しきに頼るべからず、手続きのみ知りたき人は譜面にて事たるべし、手続きのみを知りたければとて尺八とは言うべからず、くれぐれも尺八の尺八あらざるを恐れよ

無孔の笛を吹く
吹くは吹かざるに如かず

久松風陽は「独問答」の中でこう云っている。

 上手は曲数にあらず一曲の上にあり、三十九曲は三十六曲なり、三十六曲は十八曲なり、十八曲は三曲なり、三曲は一曲なり、一曲は無曲なり、無曲は気息なり、気息は虚無なり、然る時は何ぞ曲数にかかわることあらんや

吹けば鳴る。鳴らば耳を澄まして聴け
尺八は我を作り上げてくれる良師である

小林紫山の「明暗吹簫の心」より

 吹けば鳴る。鳴らば耳を澄まして聴け、鳴らざれば心を澄ませ。無声のうちに囁く天地の響きが聞えるであろう。しかもその響きは己の心の響きである。
 尺八は無心である。しかし己が心のままに相和してくれる尺八は、尺八を吹く者にとって無上の知己である。心の友である。しかも我を作り上げてくれる良師である。

守破離

 尺八を上手に吹くということは難しい。譜面どおりに吹く人は物覚えが良い人で上手とは云いがたく、しかして全ての人が余にも勝手気ままに吹けば尺八の乱れる元となる。まずはその教えを素直に守り、それを十分修得したら、違ったことをしてみる。それから己の曲として再構築する。違えずしてまた大いに違え、新しいものを創作していくことが大切。
 尺八に限らず茶道・武道、その他ありとあらゆる芸事は、まず師匠の型を守り、それが十分に身についたのなら己に合うように研究する(破)、その研究が十分になって始めて型から離れた自分ものとすることができる。
 「多くの弟子は師匠の半分の実力も満たない」といわれる。これは型を守るばかりで己を省みず、研鑽を怠るからである。「型破り=悪」というワケではないし、「好き勝手すること=型破り」というワケではない。それを違えてはならない。

真行草

 格式高く丁寧な真の手、その対極で型に囚われない草の手、その中間に位置する行の手。日本の芸能に古くからある表現と上達のための道しるべ。

真=基本となる型、相伝の型
行=基本をきっちりとこなしつつも新たな要素を取り入れた型
草=基本を身につけつつ、その型を崩した型。型破り

格好だけを唄だけを吹いたのでは
幾年吹いてもその境界に入ることは出来ない

後藤桃水 曰く

 伴奏のままの手法を如何によく吹いたからと云って、それで良いというわけにはいかない。人間の音声には竹にあらわせない妙味があるように、竹にも音声の及ばない旨味がある。即ち竹の生命が出てこない。その真諦が分からないでは尺八を吹くとはいえないのである。そこで本曲の修行というものが意義をなすのである。

永い芸術とは、日に新たに
日々に新たなるものを指すもの

神如道 尺八古典本曲指南 より

 「人生は短く、芸術は永し」といわれるその芸術とは、かくのごとくにして日に新たに日々に新たなるものを指すもとと思う。無反省・無鍛錬な模倣では決して造化にならない。
 中には「本曲は芸術ではない禅の一法である」といって調子ぱずれの吹き方を平然とする人がいる。なるほど、禅の一法に違いないが.......禅宗で用いられる声明・法具・生活様式等すべて芸術的でないものはない。独り吹禅のみは芸術でなくても良いということは許されない。ただし、「俗芸に陥るな、芸に入って芸に入って芸を超越せよ」と注意することはよい。

総て明と暗に吹き分けること

勝浦正山 勝浦正山遺譜 より

 総て明と暗に吹き分けること。吸う息と吐く息が明と暗だし、早い・遅いが明と暗だし、長短、緩急、強弱、高低、太細、清濁が総て明と暗だ

大海塵を選ばず

紙鳶(いかのぼり) より
大海塵を選ばず 達筆筆を選ばず 芸者器を選らばず
されば妙観が刀はいたくたたずとかや
一節切もまた然りなり 音律にくわしくして鳴ることを竹にもとべからず

明頭来也明頭打、暗頭来也暗頭打、
四方八面来也旋風打、虚空来也連架打

四打の偈(シタノゲ)、明暗両打の偈(ミョウアンリョウダノゲ)とも云われる。
※文字として記されるときは「也」は省かれることがある。

<読み>
みょうとうらいやみょうとうた、あんとうらいやあんとうた、
しほうはちめんらいやせんぷうた、こくうらいやれんかだ

※多くの禅師・学者が様々な考え方をしているがここでは、ほんの一部を紹介している。

<意味1>
正面からくれば正面から打ち、隠れてくれば隠れて打つ、
四方八方からくれば回転して打ち、大空いっぱいにくれば連打して打つ

<意味2>
分かったやつが来れば賢者を打ち、分からないやつが来れば阿呆を打つ、
四方八面から来れば旋風で打ち、盲滅法で来れば連打して打つ

<意味3>
差別でくれば差別で受け、平等でくれば平等で受け、
四方八方でくればつむじ風のように受け、虚空からくれば釣瓶(つるべ)打ちに受ける

この後に「そのどれでもなく来たらどう受けるか」と続く、これを考えることが大切。

 禅問答の一つで、由来は古代中国の普化禅師が市中を鈴鐸をもって練り歩き唱えたとされるところからきている。この鈴鐸の音を張伯という人が笛に置き換えたことが尺八の起源らしい。この偈を唱えるのに合わせた「普化禅師四打之偈」という曲もある。

<幻海の考え>
他人は己の鏡であり、また己は他人の鏡である。因果応報。

一従裁断両頭後 尺八寸中通古今
吹起無上那一曲 三千里外絶知音

尺八に伝わる偈。朗庵や一休禅師も詠っている。

一休作:
自従裁断両頭語 尺八寸中通古今
吹起無常心一曲 三千里外絶知音

<意訳>
竹の両端を切った尺八寸の中は今も昔も代わりがなく
一曲を無上(無常)のものとして吹けば 遙か遠く(過去・現在・未来)までも届く

一吹断諸悪 ニ吹積諸善
三吹観音悟道 四吹衆生度

尺八に伝わる偈。

一息吹けば悪因を断ち 二息吹けば善行を積み
三息吹けば観音の道を悟り 四息吹けば人々に救いの道を示す

白楽天 琵琶行

尺八のコトワザではないが、白楽天の中に琵琶の音色のことについてよく形容されている詩がある。それは、全ての音楽に通ずる。

大絃は槽々(そうそう) 急雨の如く 小絃は切々 私語の如し
槽々切々 錯雑(さくざつ)に弾ずれば 大珠小珠 玉盤に落つ
間関(かんかん)たる鶯語(おうご) 花底に滑らか
幽咽(ゆうえつ) 泉流 水 灘(たん)を下る
水泉冷渋(れいじゅう) 絃凝絶し(げんぎょうぜつ)
凝絶して通ぜず 声暫し歇(や)む 
別に幽愁 暗恨の生ずる有
此時(このとき)声なきは 声あるに勝る
銀瓶乍ち(ぎんへいたちまち)破れて 水漿迸り(すいしょうほとばしり)
鉄騎突出して 刀槍鳴る
曲終わって撥ををさめ 心(むね)に当てて画(くわく)す
四絃一声 裂帛(れっぱく)の如し

白楽天 養竹記

竹は本固し 固はもって徳を樹つ
竹は性直 直をもって身に立つ
竹心は空 空をもって道を体す
竹節は貞 貞をもって志を立つ
故に君子はこれを見習え

動是実 静是虚

色麁相(そのいろまずしきそう)
動是実(どうじてこれじつとなし)
静是虚(しずまりてこれきょとなす)
内空相(うちにくうなるそう)
玄又玄衆妙門(くろのまたくろすべてはここからしょうずる)
意在処(いのありか)
意結相(ここにおもいをむすぶ)

玄=黒:混沌を表す

廬山煙雨、浙江潮

 宋代で最高の詩人と呼ばれた蘇軾(そしょく、蘇東坡)の詩で、禅語としても用いられる。
 尺八では、奥州系の尺八を良く吹いた名人・浦本浙潮が特にこれを好み、自らの号と古鏡の愛管に「廬山煙雨」と名付けている。

廬山(ろざん)は煙雨(えんう)、浙江(せっこう)は潮
未だ到らざれば、千般恨み消せず
到り得て帰り来たれば、別事無し
廬山は煙雨、浙江は潮

[意味]
 江西省にある山・廬山は煙のように起こる霧雨が絶景として有名で、浙江とよばる海岸は高潮が有名である。それを見ないうちは「どんなに素晴らしいだろうか」と物思いに耽っていた。ある時、念願叶って、そこに行って眺めることができたが、別段はなく、あくまで廬山は煙雨、浙江は潮だった。
 始めの「廬山煙雨、浙江潮」は、思い込み。後半のものは、本来の姿を見た感慨を現す。この2度の言葉は、同じ言葉でありながら、別の次元を感じさせる。つまり物事には2面性があり、見る角度が変われば、感じ方などは全く異なることを教え、それでいて何ら異なることはない、ということを教えている。

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