Top -トップ->Study -尺八の考察->尺八、ゆかりの地>ぼろ塚+鉄尺八

尺八・虚無僧、ゆかりの地

文字が小さくて観にくいと感じたらコチラ
  文字サイズ拡大  

ぼろ塚  郡山宿本陣+鉄尺八

国史跡 郡山宿本陣(椿本陣)+鉄尺八  秋の特別公開のお知らせ

第53回茨木市教育文化月間 第33回秋の特別公開
平成29年10/28~11/5 午前9時半~午後4時半(入場は午後4時まで) 入場無料
※駐車スペースには限りがあります。
住所:〒567-0055 茨木市宿川原町3番10号

●10/28・11/3 14時~15時半 本陣内見学案内
●10/29 14時~15時半 「本陣に伝わる藩札の世界」特別公開関連講座 
●11/4 14時~15時半 尺八演奏:葛山幻海(本曲中心に尺八やぼろ塚のことなど演奏と喋る予定です)申込不要

郡山本陣秋の特別講演 チラシ01。 尺八修理工房幻海 郡山本陣秋の特別講演 チラシ02。 尺八修理工房幻海 ←写真クリックで拡大

ぼろ塚

 大阪府茨城市史跡、ぼろ塚の参考画像01。 尺八修理工房幻海大阪府茨木市の史跡で約1mの花崗岩による碑。表面にはぼろ塚(不路塚?)と刻印されている。建設年度などは不詳。尺八との関係というよりは、虚無僧のもとになったといわれる梵論(ぼろ)に関係する。国道171号線工事のために現在の位置に移動されたとのこと。本来はもう少し北部のお寺よりの河川にあったのではないか、といわれている。

 「ぼろ」とは、鎌倉末期頃に現れだした梵論や暮露、あるいは梵論字(ぼろんじ)、ぼろぼろなどと呼ばれる、半僧半俗の物乞いの一種。身なりがボロボロであることや、薦(こも、藁の敷物で当時はボロといった)を持っていたことからの名称であるといわれている。
 無宿の浮浪者、無頼漢、乞食、物乞いではあるが、半僧半俗の為、京都の鳥辺山や仇野など道々の無縁仏の供養も行なっていた。他に高野聖(こうやひじり)や乞食聖(こじきひじり)と同一されることもある。
 ぼろが転じて薦僧に、そこから虚無僧になったといわれる。

 ぼろ塚の話は、鎌倉末期頃に吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)によって書かれたといわれる3大随筆の一つ・徒然草の第百十五段に出てくる、宿河原のぼろの逸話に由来し、その供養として塚が建てられたといわれる。
 ただし、武蔵国(現 川崎市)にも同名の塚があるらしく、どちらが兼好法師の聞いたとされる場所なのかは判然としない。

住所:大阪府茨木市南清水町1-1 交番裏手の堤防沿い
アクセス=大阪モノレール豊川駅近く、阪急バス豊川一丁目バス停より徒歩5分

徒然草 第百十五段:
【古文】
 宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
 ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。

宿河原でのぼろのいさかい01、徒然草(元禄期の出版):提供 椿本陣当主 梶洸氏

宿河原でのぼろのいさかい02、徒然草(元禄期の出版):提供 椿本陣当主 梶洸氏
資料:徒然草(元禄期に出版された物内 第百十五段の挿絵) 提供:郡山宿本陣 梶洸氏

【現代文】
 宿河原という所に、ぼろぼろが多く集まって、九品念仏(くほんねんぶつ、浄土へ行ける様に祈る念仏)を唱えていたが、そこに他所から来たぼろぼろが来て尋ねた。
 「この中に、いろをし房と言うぼろは、おりませんか?」
 するとぼろぼろの中から、
 「いろをしならばここにいるぞ。そう言うお前は何者だ?」
と答えが返ってきた。
 「私はしら梵字と申す者です。」
 「東国で私の師が、いろをしと言うぼろに殺されたと聞き、その人に会って恨みを申し上げたいと尋ねきた次第です。」
と、そのぼろが答えた。
  いろをしは、
「よくぞここまで参られた。確かにそのような事があった・・・。」
「だが、ここで相対すれば道場を血で汚す事になる。しからば、前の河原へ一緒に参ろう。」
「皆々、どちらにも助太刀無用。騒ぎが大きくなり、恨みが増えれば、仏道修行の妨げになるだろう。」
と言った。
 二人は河原に出ると、心ゆくまで刀で切り合い、共に死んでしまった。

(兼好の語り)
 ぼろぼろという者は、昔はいなかったと言われている。
 ぼろんじとか梵字、漢字などと名乗りだした者たちが、その始めとされている。世を捨てたかのように見えて我執が強く、仏道を求めるようで、闘争を好むところがある。
 放逸な気ままさを持ち、恥知らずな有様だが、自分の死を恐れることも無く、少しも生きることにこだわらない生き方に潔さを感じて、人の語るままにぼろぼろについて書きつけたのである。

郡山宿本陣(椿本陣) + 鉄尺八

 大阪府茨城市史跡、郡山宿本陣(椿本陣)の参考画像01。 尺八修理工房幻海大阪府茨城市にある国の指定の史跡。現在は、当主・梶洸氏とそのご家族が居住しながら、この史跡を保存している。
 西国街道の要衝に位置し、参勤交代のための重要な宿場として多くの大名に宿として利用された。有名な大名では、忠臣蔵のもとになった赤穂藩主の浅野内匠頭(4回宿泊)や越前福井藩の松平忠昌(伊予守)、播磨龍野藩の脇坂安照(淡路守)など多数。また、皇太子時代の明治天皇もご宿泊され、上段の間には貴賓をもてなす為の畳や菊の紋が施された茵(座布団)などが用意されている。大玄関の横手には見事の椿の大樹があり、その木が五色の花をつけたことから「五色夫婦椿」とよばれ、「椿の本陣」の愛称の由来となっている。
 この椿の本陣には、いつ頃のものなのか、どういった伝来のものなのかは定かでないが、鉄製の尺八(正1尺9寸=約57.5cm、目測ではあるが指孔は十割り)が所蔵されている。言い伝えによれば、流正という人(僧?)が鉄砲鍛冶に依頼して作らせたものだといわれ、ご当主の考えでは「武器にしたのではないか」とのこと。構造的には、大まかながら内径は約20mmから管尻に向かって細くなるようになっており、また1孔下が狭まるように別の鉄輪が打ち込まれているなど、正しい尺八構造の知識を持った者が製作時にアドバイスしたと思われる。少し重いが実際に吹奏することは可能(特徴としては5孔の音程が少し低い、井<三のウ>が鳴らない。他はおおむね良し)。5孔横には焼印を模した銘の後のようなものがあるが、実際に銘があったのか、それともデザインとしてなのか判読は不可能。

住所:〒567-0055 茨木市宿川原町3番10号
電話番号:072-643-4622
見学:無料、ただし5人以上の予約制(10日前)午前10時~午後4時
※見学の際のルール:ご当主家族が生活されているので、事前予約またマナーを守った見学をしてください。

【演奏会 情報】
椿の本陣にて、尺八の講演と古典本曲演奏会を行ないます。(演奏は幻海が担当)
2014年11月2日(日)14:00~15:30
定員:約40名(多数の場合、抽選)
演奏曲目:調子(1.8寸)、瀧落(1.8寸)、無住心曲(2.5寸)、虚鈴(鉄尺八、1.9寸)、鶴之巣籠(2.1寸)

※お申し込みなどの詳細URL:茨木市 広報いばらき 2014年10月号 特集2(ページ最下段)

ぼろ塚・郡山本陣とその近郊 -風景写真-

大阪府茨城市史跡、ぼろ塚の参考画像02。 尺八修理工房幻海 大阪府茨城市史跡、ぼろ塚の参考画像03。 尺八修理工房幻海 大阪府茨城市史跡、椿本陣の由来の五色夫婦椿の参考画像01。 尺八修理工房幻海 大阪府茨城市史跡、椿本陣の鉄尺八の参考画像01。 尺八修理工房幻海

※写真をクリックで拡大表示します。