Top -トップ->Study -尺八の考察->尺八、ゆかりの地>虚無僧寺組織案内>北陸七ヶ国支配

尺八・虚無僧、ゆかりの地

虚無僧寺組織案内

 全国津々浦々にある尺八・虚無僧ゆかりの地。それら普化宗虚無僧寺の組織を解りやすく図解し、改めて尺八の根源というか、流派の流れなどを確認したいと思う。とはいえ、ほとんど寺とは名ばかりの草庵のようなもので、しかも取り壊れたところがほとんど。追跡調査もなまなかではない。もし、詳しい情報を知っている方おられたらどうぞご連絡いただきたい。

文字が小さくて観にくいと感じたらコチラ
  文字サイズ拡大  

普化宗虚無僧寺 北陸七ヶ国支配

 北陸七ヶ国は、それぞれ越後(えちご、現在の新潟県)、佐渡(さど、現在の佐渡島)、越中(えっちゅう、現在の富山県)、加賀(かが、現在の石川県南部)、能登(のと、現在の石川県北部)、越前(えちぜん、現在の福井県北部)、若狭(わかさ、現在の福井県南部)の7国を指す。

普化宗虚無僧寺 北陸七ヶ国支配(越佐二カ国支配)

越後国中之原 明暗寺一寺のみ現在:新潟県三条市中野原 越後明暗寺跡地・墓所あり
(新潟県長岡市深沢町 正林寺に本堂が移設)
「三条市教育委員会 秀峰山 越後明暗寺跡(PDF)」
菩提寺:竜耕寺、栄雲寺
越後三谷(下田三谷)越後鈴慕(下田鈴慕)神保三谷

 開基は、的翁文仲(俗名を菅原吉輝、のちに堀田吉輝に改名)。もともとは加賀出身の(前田家)武将といわれているが、考えるところあってか慶長年間に上洛し、普化宗・文遊庵主(京都明暗寺、※)に弟子入りし、吹禅修行に努める。京都では堀川に住んでいたという。
 その後、さらに尺八を極めんと関東に下向し、駒込に居住していた際に堀丹後守直寄(ホリナオヨリ)の知遇を得、その推挙により徳川家康に謁見した。吉輝が諸国の地理に精通し、武勇に秀でていることを認めた家康は、事ある時(大阪の陣を予見)には馳せ参じ、先鋒の軍役(騎馬5人、徒歩120人を従えて)を勤めることを条件に軍役寺(のちの秀峰山 明暗寺)の創立を許された。
 各軍役に参陣し、軍功を立てる。特に大阪夏の陣では河内口より進出する猛将・後藤又兵衛基次の部隊と交戦し、大阪にとって重要な後藤・薄田両部隊を潰走させるにいたる。余談だが、これが原因で真田信繁(幸村)は、徳川本陣への決戦を諦め、大阪城に孤立無縁な篭城を行い、終には大阪城は陥落する。
 堀直寄が軍功により越後村上城主(越後村上藩)となると城下に一寺を設けられ、堀の一時を名乗りとして許された。それ以来、越後明暗寺看主・的翁文仲であると同時に、村上藩士・堀田吉輝を名乗るようになった。また、藩より食禄100石(35石という記録もある)、扶持米5石を貰っていた。
 その後、越後明暗寺看主は相続され、堀田姓を名乗り、江戸幕府終焉後の神仏分離の法令まで15代続いた。他の虚無僧寺とは異なり、越後明暗寺はほぼ世襲相続(実子がない・早世した場合は兄弟あるいは血縁者から養子縁組)で肉食妻帯。座主は総髪で肩まで髪をたらし、綸子の白衣も金襴二十五条の袈裟をかけ、出かける際には駕籠に乗っているという豪奢なもので、実質、三千石相当(※)の生活が可能であったと云い、上級家老や武士の駕籠などが通っていても「明暗寺まかり通る」の先触れで駕籠を降りる、道を譲る必要もなかったと云う。
 寄竹派の京都明暗寺、また不智派・根笹派の虚無僧らの行き来も多かったという。一時、寄竹派や不智派・根笹派に属したという資料もあり、完全には属さず不即不離の関係を保ちつつ、独立した一寺であったとする資料もある。

※ 文遊庵主=京都明暗寺の者だといわれているが、京都明暗寺の歴代住職の中にこの名称は見られない。門弟の一人だったのか、あるいは別号なのか、はたまた記録に残っていないだけなのだろうか。庵主という名称であるが、当時の京都明暗寺はまだ草庵のころであるので、そのように名乗っていてもおかしくはない。あるいは宇治の吸江庵の在住であったのかもしれない。伝承によれば大阪夏の陣(1615年)以前のはずなので、年代的には12世・閑月露身~13世・有心法快のころだと思われる。

※ 三千石=家老並みの収益で、現在の貨幣価値でおおよそ2億円相当の年収。ただし、その分責任も重く、戦時などのことある時には相当数の人員を動員しなければならいので、家来を常に養っておく必要がある(この場合は虚無僧も含むと思われる)。

【歴代住職】 ※史料により多少異なる
★寺領は南蒲原郡下田★
開基 的翁文仲(俗名を菅原吉輝、のちに堀田吉輝)
2代 大応源秀(霊岩源宗とも、堀田隼之助吉時)
3代 良仙(戴月亮船とも、堀田乙治朗吉堅)※早世
4代 義山良運(堀田源治朗吉利)
 ※2代目の弟・堀田仁之助(号を玄仲、堀家のお抱え医師)の嫡男、良仙の養子となる。
 ※良運の代までが公儀へお目見え、出府していた。この頃、堀氏は無嗣断絶となっている。藩は本多家→松平家へ。
5代 月山良義(月山高閣とも、堀田保三郎吉貞)
6代 了栄(月海湛光とも、堀田喜一郎吉長)
 ※4代目の3男、5代目が中世のため準養子となって後を継ぐ。
7代 了時(了寿、洞岩徴宗とも、堀田小治郎吉智)
8代 了儀(快山青霞とも、堀田吉信)
 ※寺火災の責めを負って自刃。
★以下、南蒲原郡中野原へ移築★
9代 快山大円(大円快山、堀田吉友、堀記内)
10代 鏡山大仙(大仙鏡山、堀田隼三郎吉徳)※古文書・普化本則鈴鐸話が残っている
11代(12代) 大鏡源志(堀田隼之進吉房)※12代とする史料もある
12代(11代) 大方源雄(源遊とも、堀田元治朗吉政)※11代とする史料もある
13代 環山源恵(堀田隼人吉茂、隼多)
14代 鏡明(堀田隼人)※14代 機山道本(堀田侍川)とする史料もある
15代 堀田侍川(堀田竜志)
★廃宗後★
16代 堀田三郎(雅号 嵐川)
17代 堀田恭雄 ※関東大震災で行方不明、絶家
18代 堀田捨次郎 ※17代目に子がなかったため、16代目の甥が継ぐ

【伝承曲】
堀田侍川(15代目看主)-斉川梅翁 伝= 越後三谷(下田三谷)越後鈴慕(下田鈴慕)
神保政之助・堀田侍川 共作=神保三谷

越後明暗寺の宗門取締出張所

【出張所】(天保十二年の古文書による)長岡、月潟、小出島、野田、十日町、新発田、水原、相川の8ヶ所

以下は、天保十四年、一月寺・鈴法寺との文献による。

蒲原郡月潟村掘侍川譜代、当七代 ※1
長岡城下宮内卯八郎(文笑)宮内市左衛門より卯八郎まで三代
小出島大割元井口藤太(永涼軒宗壽)曽祖父井口伝九朗より四代
頸城郡上野田村庄屋木島角兵衛(木角)角兵衛まで三代
※高田御領下茶町先田源衛門上、角兵衛退役後、世話役
妻有在十日町角田佐次兵衛(観竜)左まで三代
新発田城下野村重左衛門(林勢)幼少にて横岡村五右衛門代理世話役
水原町里屋安右衛門(里安)安右衛門まで三代宗門世話役
佐州(佐渡島)相川内藤先保佐州一国宗門取締出張所、
本寺より世話役僧1人ずつ渡海相勤む

※1 掘侍川は、越後明暗寺の最後の住職であるが、もとは分家筋にあたり、代々月潟村出張所を預かる家柄であった。しかし、14代に跡継ぎがいなかったため、15代目の名跡を継いだという。侍川は月潟出張所のものが代々継承する号であると考えられている。

越後明暗寺属、北陸の無院の寺

露月庵無院現在:新潟県高田市
一養軒無院現在:新潟県柏崎市
順宅庵無院現在:新潟県山ノ上
一竜軒無院現在:新潟県糸魚川市