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尺八・虚無僧、ゆかりの地

虚無僧寺組織案内

全国津々浦々にある尺八・虚無僧ゆかりの地。それら普化宗虚無僧寺の組織を解りやすく図解し、改めて尺八の根源というか、流派の流れなどを確認したいと思う。とはいえ、ほとんど寺とは名ばかりの草庵のようなもので、しかも取り壊れたところがほとんど。追跡調査もなまなかではない。もし、詳しい情報を知っている方おられたらどうぞご連絡いただきたい。

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虚無僧 及び 虚無僧寺の主な収益

 虚無僧は半僧半俗であり、普化宗と禅宗系を名乗りながらも葬儀や法要などは行わない(一部、九州方面では葬儀なども行ったとの記録もあるが。「雲井獅子」参照のこと)。
 その為、寺の維持や個人の食い扶持の為に、主にはお布施を乞う托鉢という方法が用いられた。ちなみに托鉢中に民家などに宿をとる事を止宿(ししゅく)という。また別に裏稼業的な方法として、風呂屋や町民・農民への尺八指南などがあった。

托鉢(門付け、辻立ち、乞食行、頭陀行、行乞)

 托鉢、別に門付け(かどつけ)、辻立ち(つじたち)、乞食行(こつじきぎょう)、頭陀行(ずたぎょう)、行乞(ぎょうこつ)などとも云う。一部、寺の修繕などの為の費用を布施で集める勧進もこれに含む。その托鉢であるが、托鉢は虚無僧であればどこでも好きな場所を托鉢してよいというわけではない。

 まずその地域を支配する本寺に所属し、本寺から「○○の地域で、○○期間、托鉢をしなさい」という指示を得る。この「○○の地域」にはお布施の量や家屋が多い地域、少ない地域があるが、それは寺への貢献度や勤続数が多いほど優先的に良い地域を割り当てられるという。その托鉢で得た米銭の何割かを寺に納め、残りが個人の食い扶持になったという。托鉢の際は二人一組で行う。
 もしも托鉢した際にでた米銭をちょろまかした場合には、免状の剥奪やムチ打ち・棒叩き、放逐などの刑罰があったという。またこの托鉢してよい地域を、もしも他の虚無僧(他寺所属)が侵犯した場合には、流血沙汰の事件などもあったようである。
 九州触頭であった江月院には、遠方の修行場として他地域の虚無僧の受け入れや管理も行っていたようである。詳しくは「柳川レポート①」「柳川レポート②」を参照のこと。
 托鉢は近くである場合は下駄履き、遠方である場合は草履履きになるという。その他、携行品などについて詳しくは「虚無僧の衣装」参照のこと。

取締場(とりしまりば)・留場(とめば)

 虚無僧の収入である托鉢、またその為の止宿は、江戸中期ごろになると村々にとって、頻繁に虚無僧が来訪したり長居したりすることから大きな負担や迷惑になっていた。

 そこで考えだされたのが、1年間分として、ある一定量の米銭を本寺にまとめてお布施することで、その地域には虚無僧を入らせない、という縄張りとみかじめ料的な契約を行う方式である。これを一月寺や鈴法寺系では取締場といい、それ以外では留場という。その際にまとめてお布施された米銭を取締料・留場料という。
 この契約方式は非常に曲者で、(そんなことはしていない、と思いたいが)やろうと思えばマッチポンプすることもできる。まず粗暴な虚無僧を村に行かせ、そのあとにそのような虚無僧を取り締まるという名目で取締場になるよう勧め、お布施を得るというものである。その後、場合によっては近隣の村に虚無僧が入らないように、あるいは入った際の見張り及び相談役として駐屯させる、といった例もある。

 この取締場や留場を他派の虚無僧寺が奪い取ろうとする際には流血沙汰や裁判沙汰などに発展する場合も多い。代表的なものに芥見村の留場争い、近江の留場争い、 越後明暗寺領内への 慈上寺からの領土横取り未遂裁判など。

尺八指南所・教授所

 虚無僧寺(主に本山格)から許しを得て尺八を教授(町人含む)し、金銭を得ていたと思われる。分類としては、寺子屋に近いか。寺や番所の他、各指南者の住まいを稽古場とする他、大名など身分の上の者や裕福な者の場合には出張稽古のような形もとっていたようである。

京都明暗寺の尺八指南役:
古鏡(※1) 林随 如意 陵雲 観玉 梅枝 去風(※2) 義古 文虹 台獄 友松 如虎 友水
超長 良仙 多水 万鏡 万竹 古舟 聖庵 流勧 友山 慶賀 明山 巴山 一指 如水 千丈 清山
龍姿 千国 友閑 魯山 主山 花玉 仙翁 柳竹 昌園 柳志 友節 豊円 残月 俣野真龍 (初到?)
(近藤宗悦は指南役に認められていたかは不明)

※1 初代の他に2代、または3代まで継がれたのではないかともいう。焼印が数種ある。ただし偽物もある。
※2 西川一草亭(華道の大家)の7代前で米穀商という

一月寺・鈴法寺の尺八指南役:
黒沢琴古(初代・2代)、宮地一閑

風呂寺・風呂司(ふろじ。風呂屋、湯屋)

 読んで薄々察せられると思うが大衆浴場(銭湯)のことである。入浴場を提供することで、薪代として銭を得ていたという。これは、仏教的な施浴の考えと、由良の興国寺に四居士(宝伏・理正・国佐・宗恕)が来訪した際に、普化谷で風呂焚きをしていたということに由来すると考えらえる(あるいは逆に風呂をつかさどる理由として、四居士が風呂を焚いていたとした可能性も多いにありうる)。

施浴:
 仏教には施浴(せよく)という考え方がある。施浴とは、別に施湯(せゆ・ほどこしゆ)・湯施行(ゆせぎょう)ともいい、貧しい人からは銭を取らずに湯を提供することは、仏教の説く功徳にあたるという考え方である。現実的な見方をすれば、昔は不衛生=疫病の蔓延=大量死となる可能性が高かった。その為、仏教では施浴を推奨したと考えるべきであろう。
 奈良時代には光明皇后が法華寺で行ったといい、鎌倉時代には東大寺の勧進として重源が、その他にも時宗の一遍上人ふくめ阿弥衆や遊行僧らが各地で行ったと云われている。この他、行基や弘法大師などが発見したと由来する温泉なども施浴的な考えを含んだものといえる。施浴とはいうなれば、炊き出しのお湯版である。

 その施浴を虚無僧寺が担っており、別に風呂寺、そこから風呂をつかさどる風呂司などとも呼ばれていたという。半僧半俗で、これといった仏教的な儀式もほとんどなく、有髪・妻帯・帯刀ありの虚無僧が、他の宗派の僧侶よりも仏教の功徳の教えにそった行いを実践しているのは、何とも皮肉ではある。
 一月寺は浅草東仲町の番所、鈴法寺は市ヶ谷田町の番所に、それぞれ風呂場を構えていたという。また目黒不動の前にある東昌寺(一月寺末)も風呂を設けて参拝者の斎戒沐浴の場として提供した他、奥州の虚無僧寺でも風呂を設けていた記録がある(メモか史料がどこだったか見つからないが、確か松巌軒か布袋軒だったかと思う。※要調査)。
 このような尊い理念と現実的な糧の為に施浴が行われ始めたと思われる。が、それは表向きで、風呂場を設けるということは、それに付随する職業者も必要になるということである。江戸時代初期であれば湯女(ゆな)の存在である。

湯女(ゆな):
 湯女とは、別に風呂屋者や風呂屋女などとも呼ばれるが、垢すりや背中流し、髪すきなどのサービスを表向きは提供する者のこと。だが、この他に飲食や音曲、売春といった性的サービスの提供と、遊郭の遊女に近い行いをする存在。ほぼほぼ、風俗といってもよろしかろうが、風呂屋及び湯女は遊郭と遊女のようには幕府の公認は得ていない。
 安土桃山時代の末頃から、風紀を乱すが必要な業種として、遊女屋を特定の区画に集めて専業的に行わせるために、吉原や島原などといった専用の遊郭を設けていた。こういった公式な遊女(公娼)は、美貌と教養を兼ね備え、吉野・夕霧・高尾の太夫や花魁のように、ある種の羨望や尊敬の対象であった。その公娼とは別に非公式には湯女を始め、宿場町の旅籠には飯盛女、出女などの私娼も存在していた(これらは淫売女とみられている)。
 そのような時代背景であるが、風呂屋と湯女は大流行し、丹前風呂と呼ばれる半ば公然とした大きな勢力を誇った町風呂まであった。あまりの盛況ぶりに吉原から幕府へ申し立てがあったほどである。

 この湯女が大流行した時代から風呂寺として風呂屋を営んでいたのであれば、湯女を働かせていたと考える方が妥当だろう。浪人が虚無僧となったとて、全てが独身者であったというわけではない。中には妻帯者、家族持ちもいただろう。現代の感覚では受け入れがたいが、西洋感覚が入る以前の日本は性に対してはかなり寛容な国であった。むしろ、湯女を働かせていた可能性を否定するならば、虚無僧浪人は男娼であった可能性すらありうる。実際に男色の話でいえば、虚無僧諸派の児派などは若衆歌舞伎のような一座であった可能性が高い(※1)。
 この他にも風呂屋を営むには、釜もしくは蒸し風呂を焚くための薪を仕入れる者、風呂場の掃除をする者、着替え場の監視(持ち物を盗まれないように)、銭を受け取る番台など、分業か兼業かは解らないが幾人かは必要としたはずである。また時には湯女に言い寄るしつこい客を追い払う用心棒のような者も必要であろうが、それこそ武家出身者には持ってこいだろう。他に楊枝(房楊枝、現代の歯ブラシの代わり)や髪を梳くための櫛、髪を結う際のびん付油などのアメニティー用品の用意も、あるいは内職していた可能性もある。中期以降は性的なサービスはなくなり、湯女の代わりに三助(さんすけ)と呼びれる男性が、体を洗う(掃除・番台などの雑事含む)などのサービスを行うようになった。

※1 江戸時代初期の浮世絵には、若衆が緑色の尺八を吹く姿などが描かれているものがあるが、これらは男根のメタファーなのかもしれない。また、フェラチオのことを淫語として尺八と呼ぶことがあるが、こういったことや風呂屋=虚無僧寺=尺八のような由来である可能性もある。

 このように虚無僧寺が風呂屋を営んでいたのであれば、規模の大小によっても変わるが数人の人間が働いていたことは想像に難くない。虚無僧寺に駆け込んだ浪人のすべてが、すぐに人前で尺八を吹けて托鉢できる、何てことはありえないので、まぁ、よくよく考えれば当然ともいえる。風呂屋仕事をしながら尺八を練習して虚無僧となる場合もあれば、あるいはこちらが向いていてそのまま番頭のようになる、なんてこともあったのではなかろうか。