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尺八コラム 限界突破!

柳川レポート① 2018/7/6

 今年の4月下旬に福岡に出張する用事があり、どうせだから、と少し足を延ばして同県の柳川市に行ってきた。(今日までレポートが遅くなったのは、ここ数か月、神経を要する製作がいくつも入っていたから……というのはいいワケである。)

 柳川と言われても、多くの尺八吹きにとっては「なんのこっちゃ、ドジョウか?」と思われることだと思う(補足:ドジョウの柳川鍋は東京で、福岡の柳川はウナギが有名)。あるいは、勘のいい人なら「あぁ、あそこには確か虚無僧寺があったな」と思われることだろう。そう、柳川江月院という虚無僧寺である。
 残念ながら、江月院自体の建物はすでにない。ただ、彼の地が尺八および虚無僧文化を愛する我々にとって重要なのは、”その土地がまるまる残っている”ということであり、それは奇跡的なことだといえるだろう。
 現在、虚無僧寺として実際に運営?稼働?(こういう言い方でいいのか解らないが)されている、京都明暗寺博多一朝軒であっても、江戸時代に実際に虚無僧寺としてあったそのままの土地、というわけではない。京都明暗寺の場合、現在は東福寺境内の塔頭の一つとしての場で、最初期は三条通り白川橋近辺(最寄に明智光秀の首塚と旨い和菓子屋がある)だし、明暗寺として明確に形を成した方広寺大仏付近の跡地は、今はおそらく京都国立博物館の敷地内で跡形もない。ちなみに当時の明暗寺の門は、小学校の門扉などに度々移設されながら、現在、大阪市平野区にある大念仏寺にある瑞祥閣の表門になっている(同寺の僧曰く、東福寺から譲られたという)。
 明治政府による廃宗の影響で多くの虚無僧寺の仏宝や史料はよくても由縁の寺へ託したり、あるいは最後を見取った人が所持や処分したり(これも後年に金に困って売られているケースが多い)で、土地などというものはもってのほかで人手に渡ってしまっており、今はどこもビルや道路になっている場所ばかりである。
 ところが、この柳川江月院に限っては掘り割りも完璧に、まるまるそのまま土地が残っているのである。これは近隣住民の方々のこの場を大切にされている信仰心、あるいは呪いで罰があたるといった恐怖というものも、関係しているようなのだが……これら江月院については、詳しくは虚無僧研究会の会報に載っているらしいのでそちらを読んでほしい(私は読んでいないので知らないが)。なので、それらについてはこのレポートでは割愛する。ただ、江月院の土地がそのまま残っている奇跡を大切に、その土地に何かしらの虚無僧の痕跡を残せれば、あるいは虚無僧寺を復活させられれば万々歳なのだが……。そういった活動も徐々に起せればと思う。
 前文が長くなってしまったが、ここからが私の柳川レポート。江月院については虚無研の会報を読め、といっているのだから「何を書くことが?」と思われるかもしれないが、その会報には載っていない柳川の史料と、その史料から伺う事の知れる事実とを書きたいと思う。

 柳川市では、柳川観光協会のY氏に色々とご案内とご助力いただきましたことを、まずは感謝いたします。Y氏がいなければ、多くの尺八・虚無僧史に関する発見が遅れたか、あるいは失われていたかもしれません。

博多一朝軒史料との邂逅

 私が柳川市でお掘り巡りをしたことや江月院にいった諸々などは省くとして、まずは結果から言おう。博多一朝軒の虚無僧が持っていた、本則・往来などが柳川市営の古文書館に保管されていることを発見した。
 正確には、立花親賢家(タチバナ チカカタ)に伝わった文書で、

・一朝軒の本則
・一朝軒の許可証
・一朝軒の御札(包み紙のようなもの)
・江月院の僧侶作の漢詩
・(一月寺系統の)掟書

と、上記6点からなっている。このように本則や掟書などが一つにまとまっている、というのは非常にありがたい。
 本則および許可証には、文化元年(1804年7月)と記載されている。同年は、11代徳川家斉の時代で老中は有名な松平定信が失脚した直後で松平信明。日本史ではロシア使節が長崎へ来訪するなど、蝦夷地(北海道)および北方方面が、開拓と外国からの干渉で騒がしくなりはじめているころ。尺八関連でいえば、一節切を小竹と名を変えて復興しようとしていた神谷潤亭(一思庵)が活動していた時でもある。
 史料に署名されている一朝軒の署名は考道。「虚無僧寺一朝軒資料(三宅酒壺洞 著/昭和58年)」の資料内によれば、「第十一世 考道祖養 文化十二(1815)年十二月晦日歿(亥四十三歳)」とあることから、おそらく考道祖養であり、このことから二つの史料の整合および信憑性がとれていると考えられる。
 考道祖養の前住職は、10世璞道祖珪で寛政十二(1800)年に亡くなっているので考道が住職に近い存在であったことは間違いがないと思われる(祖珪の前、9世龍瑞祖民は文化4年歿なので、年齢的に考道は副住職、あるいは9世に補佐してもらっての住職だった可能性もある)。同史料は、考道が31歳ごろに書いたものということになる。
 紙質については、それほど私は詳しくはないので正確なことは言えないが、最上級というわけではないが、楮などの密度も濃そうで丁寧に漉かれているようで、現代の習字でつかう和紙とも遜色がない、そこそこ上質な紙なのではないかと思う。おそらく、紙漉きの際の簀(す)の目があるので楮紙(ちょし)ではないかと思う。余談だが、私は越後明暗寺の本則を個人で所持しているが、こちらは鹿の皮でも鞣してるのじゃないかと思えるほどの上質な紙を使用している(こちらは三椏紙<みつまたし>か?)。
 本則自体は木版刷りで、これは「虚無僧寺一朝軒資料」内でも一朝軒では木版刷りであることが記載されている為、共通している。少なくとも文化頃にはすでに木版刷りであったことが証明された。
 また、「虚無僧寺一朝軒資料」内に記載されている古文書類は、ほとんどが幕末期ごろのものであることから、柳川の史料が(個人のコレクターが持つものもあるかもしれないが)現状では”普門山一朝軒の史料としては一番古い物”であると思われる。

 さて、上記史料であるが、これら本則・往来は(現物・写しを含めればよく出回っているものなので)虚無僧史に興味がある人であれば、貴重なものだと考えても、それほど興味を引く類ではないと思われるのではないか、と思う。確かに内容自体は、普化禅師の鈴鐸や東照大権現から認められた武士一時の隠家といったものでそれほど目新しいものではない(もちろん詳しく見れば、少しずつ違いはあるが)。しかし、柳川にある上記史料は虚無僧史にとって非常に重要な研究材料になりうる、と私は確信している。
 まず、私がこの史料と出会った瞬間に感じたことは「何故、ここに一朝軒の史料が?」という違和感である。考えてみてほしい、柳川は金先派一月寺に連なる江月院の勢力圏なのである。対する一朝軒は、寄竹派京都明暗寺に連なる末寺。ある派閥の勢力圏内のど真ん中に別の派閥の、手紙などではない本則がバンっとある。非常に奇妙なことだと思われないだろうか。

虚無僧寺の派の違い

 江戸時代の虚無僧寺には(時代によって増減するが)、「金先派、括総派、寄竹派、梅地派、根笹派、小菊派、不智派」のおおよそ七派があり、その中で特に派閥・寺格共に高いものに「金先派の一月寺」「括総派の鈴法寺」寄竹派の京都明暗寺」の3つがある。簡単に言えば、この三ヶ寺及びその末寺が三大派閥である。
 この三ヶ寺は、幕府とも強い繋がりがあり、虚無僧を取り仕切り、また偽虚無僧を取り締まる触頭という(総本山的な)立場でもある。
 派閥間のやり取りについては、京都明暗寺と一月寺との書状、松巌軒の風呂についての調査に一月寺が介入する、などといった例も存在することから、まったくの音信不通ということではなく、それほど頻繁ではないにしろ多少の交流があることは知られている。
 ただ、それとは逆に敵対的な行動をとっている史料も多数存在する。例えば、京都明暗寺の縄張りである近江界隈への浜松普大寺(金先派。一月寺の末寺)による留場(※)争い。また甲州乙黒明暗寺(括総派。鈴法寺の末寺)と浜松普大寺による岐阜県芥見村(あくたみむら)での血なまぐさい留場争い。鈴法寺の後盾をとった慈上寺(元根笹派・梅地派。のちに鈴法寺末)による越後明暗寺(独立的な一ヶ寺)の勢力圏への介入および縄張りの横取り画策(ただし、寺社奉行との数度に渡るやり取りにより越後明暗寺側が勝訴)。などと、直接的な利権や利益に関わる様な場合には、刃傷沙汰や寺社奉行への訴えといった例も多いようである。

留場=虚無僧による托鉢することが決められた場所の事で、虚無僧寺にとっては貴重な収入を得る場所のこと。虚無僧の托鉢を回らせない代わりに村から一定の米銭を虚無僧寺に上納するというような取り決めを村ごとにする場合もある。その場合、他所の虚無僧や偽虚無僧が入り込まないように定期的に見回りをしたり、あるいは出張所や世話役を村に駐屯することもある。

では、なぜ柳川に一朝軒の本則があるのか

 このことから考えて、先の一朝軒の史料についても、托鉢という明確な江月院の利権を有する領土への侵犯行為であることから、私は当初、何かしらの事件・事故があり、その為に当地に一朝軒の虚無僧が所持した本則が残ったのではないか、と考えた。
 私の考えた可能性は3つ。

①一朝軒虚無僧と江月院または江月院虚無僧の間で諍いや刃傷沙汰があった。
※ これは、上記の留場争いのような縄張り争いのパターン。江月院の虚無僧が、一朝軒の虚無僧を殺害し、本則などの所持品を江月院へ持ち帰ったのであれば、当地に残る辻褄は合う。

②一朝軒虚無僧が何かしらの理由で柳川方面に来訪し、行き倒れた、または災害により急死した。
※ 「虚無僧松(なぞかけ松)」浜松普大寺虚無僧・清山の行き倒れのパターン。この場合、遺体などは動かさず、一朝軒の関係者と藩の監察とともにおかしな点はないかなど調査、のちに現場近くに埋葬される。通常であれば本則や尺八、米銭などの貴重品は所属寺が回収することになっている。が、一朝軒はそれほど規模の大きな虚無僧寺ではないので人手不足から藩の裁量に任せたために、当地に本則などが残された可能性はある。このパターンの場合、江月院にではなく、立花親賢家の文書として残っていた理由の説明にもなる。もしかしたら、立花親賢家の所領内に虚無僧が行き倒れたなどの昔話や石碑の類が残っているかもしれない。柳川とは書いていなかったかと思うが九州方面では、虚無僧の関わる昔話や逸話などがいくつかあったかと思う。

③一朝軒虚無僧が柳川を通り抜け、さらに南の薩摩方面に行ったが、事件や事故に巻き込まれて負傷し、柳川まで帰ったが行き倒れた。
※ これについては飛躍気味であるが、一つの可能性として。島津家の薩摩藩内では、虚無僧の入国を「虚無僧は徳川家の隠密」という意識があった為か、非常に厳しく取り締まっている。これは、明治に入っても随分と長くそうであったようで川瀬順輔(竹友翁)の回顧録の中でも、エピソードとして語られているほど。明治後でもそうであるから、江戸時代であれば、なおの事だったのではないかと推察される。このあとは、②と同じ。

 と、上記のようなことを考えたわけである。少なくとも、本則が他の派閥の勢力圏内に残る、ということは通常では考えられない、異常事態ではないだろうか。

柳川史料の面白い点

 改めて柳川古文書館の史料に目を通してみる。よくよく観察してみると、御札に気になる記述がいくつかある。
 まず一つ目は、一朝軒から本則などを受け取った人物であるが「俗弟子 渡毛子」となっている。
 ここで気になるのは「弟子」ではなく、「俗弟子」という記述。通常、虚無僧になれる者は掟書にもあるように”武士”のみである。が、これは表向きの建前で、葬祭供養を行わない虚無僧寺の収入源の一つとして、托鉢とは別に町衆(主に富裕層)にも尺八を教えることで指南料を得ていたことは、京都明暗寺の俣野真龍や一月・鈴法両寺の吹合所や指南役の黒沢琴古の存在からも明らかである。
 このことから、この史料の「俗弟子」は、武士以外の町衆(博多商人か?)ではないかと考えられる。のだが、私自身はこのように明確に俗弟子と書かれた史料を見るのは(見落としてるだけかもしれないが)初めてで、記憶にもない。指南所と指南者の名簿、幕府からの一月寺への問い合わせで「武士以外にも教えているのではないか」に対して「武士以外には本則は渡さない」といった話、および町人にも教えているというような噂話のような伝聞は知っているが、明確に俗弟子という存在をあらわした物的な証拠としての史料は、もしかしたら初かもしれない。
 もう一つ気になる点は、これは文化元年に発行されたものであるが、この他に日付が二つ書かれていること。一つは「子七月廾三日○○」でこちらは、おそらくこの御札と本則類が発行された日だろうと思われる。
 そしてもう一つの日付であるが、こちらは私の古文力では判然としないのであるが、史料に近い文字でかくと「丹三J月廾三日全」となっており、確証はないが「同三ヵ月二十三日全」で、「文化元年の7月より3ヶ月まで有効」という意味なのではなかろうかと思う(ただし確証はないので、古文書を読める方に正確に翻刻してもらう必要がある)。
 これが俗弟子だからなのか、それとも特例的にそうなのか、あるいは御札に書く場合は常なのかは判断できないが、このように有効期限があるというのは非常に興味深い点で、他に残る本則史料には見られない特徴といえるだろう。
 この二つの日付が有効期限を現しているのであれば、やはり俗弟子が一時的に虚無僧になり托鉢をしている者=町衆、ということの裏付けともいえるだろう(武士が一時的にという可能性もなくはないが、それなら”弟子”と書いても問題はないので)。

 同史料が来歴した理由ついて、色々と考察してきたわけであるが、ここまでで些か手詰まり感に陥られていたところである。そんな折、Y氏から帰宅後に連絡があった。

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