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尺八コラム 限界突破!

柳川レポート② 2018/7/25

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新たな可能性

 同史料が来歴した理由ついて、色々と考察してきたわけであるが、ここまでで些か煮詰まった感に陥っていたところである。そんな折、Y氏から大阪に帰宅後に連絡があった。
 (Y氏にはフィールドワークの際に予め、私の考えを伝えていたが)改めて、柳川郷土史家の渡辺村男氏が書いた資料や文献などに目を通してくれたそうである。そこで、渡辺村男氏の資料の中に「大間山江月院では他山他派の虚無僧の修行を認めていた」らしいということを教えてくれた。まだその資料まで目を通していなかった私は急いで確認した。
 抜粋すると、

『京都関東より他山都蒙僧(虚無僧の別字、この書き方は珍しい)参り候て、九州中にて修行仕り申し候得ば……往来本則を相改め此方へ預かり置き……此方より五十切の往来本則遣わし……』(渡辺村男 著/江月院柳川新報記事 より)

となっている。これは、浜松普大寺越後明暗寺などの一件を知っていた私にとっては青天の霹靂のようなものであった。

 この渡辺氏の資料によれば、江月院は他派の虚無僧を受け入れていたというのである。虚無僧寺同士の関係というのは、托鉢などの直接的な利益に関することで言えば、私はどちらかというとネガティブな印象を持っていた。
 これが渡辺氏の資料だけであった場合には、伝聞による変質や美化という可能性も考えられたわけであるが、一朝軒の本則が実際に当地に残っている以上、真実であることは疑いようがない。
 また、これにより柳川レポート①でその可能性を考察した、「①一朝軒虚無僧と江月院または江月院虚無僧の間で諍いや刃傷沙汰があった」という線はほぼ消えたと考えていいだろう。
 そして、改めて一朝軒の虚無僧・渡毛子が江月院に托鉢許可を願い出たのであれば、立花親賢家文書(柳川市営古文書館)にまとまって伝わっていた古文書類が一朝軒の本則だけでなく、一朝軒とは別派閥の江月院や一月寺系の掟書が含まれている理由としても納得できるものとなる。

・一朝軒の本則
・一朝軒の許可証
・一朝軒の御札(包み紙のようなもの)
・江月院の僧侶作の漢詩
・(一月寺系統の)掟書

 もちろん、これらが一時に立花親賢家に伝わったということを前提としているが(時期などバラバラに取得した可能性もある)。
 本則を預かる代わりに渡したという「五十切の往来本則」というものがどういったものかは不明である。紙の形態(※)についても専門外なので正確には解らない。が、”五十切”の部分を推察するに、切紙で(50枚?、それとも多くの枚数の比喩?)継ぎ足した”切継紙”のことだと思うのだが……。(一月寺系統の)掟書の実物は確かに巻物のようにかなり長さのある紙であった。もしかしたら「五十切の往来本則」が立花親賢家文書に伝わったこの(一月寺系統の)掟書のことなのだろうか。

※古文書の紙の形には、
「竪紙(たてがみ)」=長方形型の紙をそのまま使用したもの。
「折紙(おりがみ)」=竪紙を折って使用したもの。
「切紙(きりがみ)」=竪紙を切って使用したもの。
その他、切紙の切り方で「竪切紙(たてきりがみ)」、「横切紙(よこきりがみ)」など、様々ある。この紙の使用され方や材質によってその古文書が、公文書・私文書であることや金銭・土地の借用書、指示書、手紙などのある程度の推測材料になる。

新たな謎

 ただ、こうなると改めて「どうして一朝軒の本則などが残っているのか?」という疑問が湧いてくる(史料として残ってくれた奇跡は、研究の上では非常にありがたいことなのだが……)。
 何故なら、通常であれば江月院の管轄内(あるいは九州内)での托鉢行が終わった際、この一朝軒の本則などは一朝軒の虚無僧・渡毛子に返却されているはずなのだから。
 江月院は「…往来本則を相改め此方へ預かり置き」と、”貰い受け”や”取り上げ”などではなく”預かり置き”と一時的に預かっていることを明言している。これがもし、回収という意味であれば、他の本則ももっと残っていていいはず。それが残っておらず、一朝軒の物のみが残っているということは、やはり例外的な何かがあったのだろう。
 このことにより虚無僧・渡毛子が何かしらの理由で、江月院に本則などを取りに戻ることができなかった、と推察される。
 そうなると、

②一朝軒虚無僧が何かしらの理由で柳川方面に来訪し、行き倒れた、または災害により急死した。

③一朝軒虚無僧が柳川を通り抜け、さらに南の薩摩方面に行ったが、事件や事故に巻き込まれて負傷し、柳川まで帰ったが行き倒れた。

といった、ことなのであろうか。それとも、俗弟子(町衆として)であることから推理して、

④渡毛子=俗弟子=博多商人として、店や家などから渡毛子のもとに何かしらの急報があり、急ぎ博多へ戻る必要があり、本則の有効期限もあることから、そのままにされてしまった。
※急報は例えば近親者の危篤や店の損失や火事など。

ということなのだろうか……。
 これらの可能性をもちろん否定はできないが、本則などの史料が立花親賢家に保存されていた理由としては少し弱い気がする。この本則が、廃宗まじかまで江月院に残っていたとしたなら、所縁のある天叟寺に預けてもいいはずなのだが。
 また、虚無僧による托鉢は、基本的には二人一組で行うという決まりがある(もちろん、人探しや仇討のための情報収集など例外的なものもあるが)。しかも、渡毛子は俗弟子なので、この場合は渡毛子よりも上位者(師匠)や経験が豊かな者が同道していたはずである。②~③の場合、その同道者が本則を江月院から回収しててもいいようなものでもあるが、それが出来ておらず、柳川に一朝軒の本則が残っていることは尋常ではないといえるだろう。

他山他派との友好と寺格

 話は変わるがこの調査、柳川江月院が他山他派の虚無僧の托鉢を認めていることから見えてくることとして。
 他派との関係は思っていた以上に友好的であったことが改めて解った。これは現在の虚無僧研究にとって、貴重な発見と裏付けといえるだろう。「呼び竹受け竹」のように道で虚無僧同士が出くわした際の儀礼や偽虚無僧の取り締まりがあるなど、ある意味、味方同士で監視するような状態であったにも関わらず、である。
 もしかしたらイメージより、他派であってもずっとフランクに接していたのかもしれない。よくよく考えれば、初代の黒沢琴古が他派(京都明暗寺や奥州系など)の虚無僧から曲を教わったり、交換している例もある。黒沢琴古が一月寺・鈴法両寺の指南という立場から例外的に特別だったかと考えていたが、残っていないだけで他にも多くの虚無僧同士で曲の交換といったことが行われていたのかもしれない。
 逆に、留場争いなどの托鉢による縄張り争いに関する事件の多くに浜松普大寺の虚無僧が関わっていることを考えると、浜松普大寺が非常にガラが悪かった可能性すらある。(確かに普大寺伝の流れを組む本曲は、虚空や瀧落ちなどある意味、豪快な感がある)。
 浜松は神君家康の縁故の地、東海道の要衝ということで、荒くれが集まり威張り腐っていたのかもしれない。まぁ、少し擁護すると、留場争いの記録が残っている時分の少し前には大飢饉などがあり、その影響を受けていることが多いので、食糧不足や収益低下で止む無く他所の縄張りを狙ったという面もあるだろうと思うが。
 江月院含め九州方面は歴史的に関東や東北に比べ大規模飢饉の影響は少ないようであるし、そういった点も、他派との友好的な態度を維持できた要因であるのかもしれない。

 そして、もう一つ。この他派に対して「往来本則を相改め此方へ預かり置き」ということから察するに、来訪の虚無僧に対して、それを行えるだけの寺格が江月院にあったことが伺える。
 江月院は「九州触頭」といっているので、それは当り前のように思えるかもしれない。ただ、この九州触頭は公に認められているか(立花家とは懇意であったようだが)、あるいは他派が認めているかまでは定かではない。
 もしも、江月院に格がなく、一朝軒とそれほど大差がなかった場合、一朝軒が本則提出を「同格なのに、大切な本則を提出などするか」と断った場合、それは血みどろな留場争いに発展していた可能性すらあるのである。しかし、それが起こっていないということは、江月院には、一朝軒が他派ながら尊重するほどの寺格=権威があったといえるのではないだろうか。
 現代人にはピンと来難いが、当時は士農工商を始め、階級に重きを置かれていた時代である。格というものが、他山他派であったとしても尊重された可能性は高い。おおよそ、総本山>院>寺>軒>庵の順で、左ほど土地や建物の規模が大きく、右に行くにしたがって小さく、人数も少なくなる。

モシカシタラ……

 これは私の推理であり、このレポートをまとめている時にふと気が付いた一つの可能性である……。上で、「①一朝軒虚無僧と江月院または江月院虚無僧の間で諍いや刃傷沙汰があった」可能性は否定したのだが、モシカシタラ……。

 一朝軒の俗弟子虚無僧・渡毛子とその相方が、虚無僧旅行で九州を周るために江月院に托鉢の許可を貰いにやってきた。
 通常、托鉢行は二人一組で行くことが決まりであるが、柳川領での道不案内にならないように、一朝軒虚無僧を一人毎に江月院虚無僧を一人当てた計二組を作り、托鉢する許可を出した。二組はバラバラに托鉢するが、渡毛子の組は立花親賢家の領地の方へと向かう。
 虚無僧であれば赤貧で、路傍に野宿することもあったであろうが、俗弟子(町衆)の渡毛子はそれなりの金子を持ち歩き、宿舎も豪勢なお奉行さまであった。
 それを目にした江月院の付添い虚無僧は、ムラムラと悪心が湧いてくる。よし、人目のない峠などで、打ち殺して金子を奪おう。
 托鉢を終えたもう一組の一朝軒虚無僧は、先に江月院に戻ってきた。しかし待てども、渡毛子は戻ってこない。旧暦七月からの夏の盛りや台風の多い時分である。日照りや急な大風大雨で、道が悪くなったり、体調を崩して遅れていたりするのかもしれない。江月院の住職からは、自分の一朝軒の本則などは返却されたので、先に戻ることにした。
 江月院住職は、渡毛子の組が戻ってこないことをいぶかしんでいた。そんな折、立花親賢家の領地で一人の虚無僧が死んでいると急報が届く。急ぎ調べてみると、死んでいるのは一朝軒の渡毛子のみで、江月院の付けた虚無僧はいない。さては、と思い急ぎ所属の虚無僧に出奔したと思われる虚無僧を捜索させた。
 このことを一朝軒に伝えることは、江月院の不祥事であり、寺領存続や触頭の立場上、非常にまずい。江月院住職は、一朝軒へは災害か行き倒れかの事故で渡毛子が死んだ、あるいは江月院に戻ってきて本則を受け取り博多への岐路についたようだが、その後は知らないことを伝える。
 立花家と懇意にしている江月院は、立花親賢家へ公にならないように渡毛子の持ち物や江月院に預けられた本則などを内々の処理のために提出する。
 その後、渡毛子と托鉢に出た江月院の虚無僧は捕まえられ、江月院内で偽虚無僧あるいは罪人として処刑された。その遺体は墓に埋められることもなく、江月院の堀に投げ捨てられ、朽ち果てる。

 近年、江月院の堀を掃除の為にさらった際に、その泥の中から遺骨と尺八が発見されたという……。

 柳川古文書館に保存されている一朝軒の本則などの史料については、許可をとれば当サイトで公開することは可能であるが、今はあえて公開しない。すごくいいところなので、何かの機会の折には柳川まで足を運んで見てもらいたい。

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