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尺八コラム 限界突破!

竹の世に隠れたる名製管師のこと 2015/4/27

 尺八界の中で、まことに名製管師と呼ぶに相応しい人物が数人いる。しかし、やんぬるかな、演奏家と違って表に立つことが少ない分、そういった人物の素顔を知ることは難しい。その一人、山崎竹隠(やまざきちくいん)は、地塗り・地無し・地盛りの3種の尺八を製作することのできた、稀有な存在である。
 楽器を持っていても竹陰という人物を知る人は少なく、逆に竹隠を演奏家として知っていても製管師としては知らなかったという例は多い。
 そんな山崎竹隠について(直接、あるいは近親者を通して間接的に)知る方々から得た情報や楽器などの考察から解ったことなどを、将来のためにもまとめておきたいと思う。

経歴からみる人物や人間関係など

[山崎竹隠および美也のプロフィール]

山崎竹隠:本名・荒太郎、福岡出身。明治21年3月28~昭和36年1月2日歿 74歳。
 琴古流、初代川瀬順輔門下、千鳥会家元。尺八を16歳より池田秀山に学ぶ。24歳のころに山崎家の養子となり、家業を弟に譲って茶道と尺八に専心する。昭和25年に神戸市垂水に転住、笹尾門下の夫人と同地にて千鳥会を開く。製管調律の大家でもあったが、そのことは(お箏の門下や知人らには)あまり知られていなかったようでもある。年齢の近い同門に山口四郎がいる。

山崎美也(みや):熊本出身。明治32年7月23日~。
 7歳からお箏を笹尾門下の成尾照子(八重女)に学び、八代高女卒業後、熊本市の福田喜久子に師事。22歳の頃より三弦を笹尾竹之都(竹之一とも)に学び昭和11年に皆伝免許を受ける、また上京のたびに川瀬里子にも学んでいた。昭和8年に山崎竹隠と結婚し福岡に、昭和18年には熊本県八代市へ、そして昭和25年に神戸市垂水に転住する。夫とともに千鳥会を主催、箏・三弦・尺八の弟子を育てた。

 と、ここまでが各種書籍などに見られる山崎竹陰とその夫人についての情報である。これだけを見たのでは、あまり人物が見えてこない。ここで少し整理しよう。

 まず、山崎竹隠がいかに琴古流の門を叩くに至ったかである。
 資料によれば「16歳より池田秀山に尺八を学ぶ」となっている。この池田秀山とはどういった人物なのか、竹号からは琴古流とは考えられず、また時代的におかしくはないが都山流(明治29年頃に興るがまだ大阪中心)であるとは考え難い。
 それもそのはず、この人物は明暗教会に属する人で、山下貞幹という九州虚無僧の親分のような人物の弟子(養子同様に可愛がっていたらしい)である。系統的には樋口対山-(清水静山)-山下貞幹-池田秀山といったところだろうか。山崎竹陰と川瀬順輔との繋がりは、この池田秀山からの紹介であると思われる。
 明治33年(1900年)ごろに川瀬順輔が九州尺八旅行をした際に、交流のあった京都の樋口対山(※1)の紹介で山下貞幹に出会い、その山下貞幹との交流が切っ掛け(※2)で、池田秀山を案内役として共に九州南部を虚無僧行脚した、と竹友回顧録には記載されている。この旅行を通じて山下貞幹から「池田に琴古流の指導をしてやってくれ」といっているようである。つまり池田秀山には、琴古流と明暗流の二つの系統が流れていたのだ。
 山崎竹陰の地無しと地塗り・地盛り製管をするに至った素地や音色の好みなどは、このようなところに少なからず影響を与えられたのではなかろうかと思う(※私はこれを荒木竹翁や三浦琴童、山口四郎の影響かと考えていたが、逆であったのかもしれない)。
 山口四郎とは同門であり、年齢も近かったことから交流があったようで、山崎竹隠の千鳥会と山口四郎の琴古会の両研究会をお互いにお弟子さんを含めて行き来していたらしい。

※1 樋口対山と川瀬順輔の交流は、樋口対山が東福寺の敬沖禅師の進めで荒木竹翁(二世古童)のところに学びに行ったのが切っ掛け。その後、関西旅行などで度々、会っていた。
※2 川瀬順輔と山下貞幹・池田秀山らの出会いによって、当時、九州で一般的であった「フホウエ譜」から「ロツレチ譜」へと移行される切っ掛けとなった。これは山下貞幹が最初であったという(山下寿恵 筆)。

 山崎美也の方も、よく整理すると面白いつながりが見えてくる。
 当時の九州で「箏・三味線の名手と言えば?」と問われて決まって出て来るのは、長谷検校(幸輝)と笹尾竹之都(竹之一)である。山崎美也には、この二つの系統が流れている。
 笹尾竹之都は幼くして失明し、宮原検校門下の村石光瀬一に師事し、三弦をよくした。また、川瀬順輔の九州行脚旅行では、「長谷検校には(京都へ出ていたので)入れ違いで会えなかったが、笹尾竹之都とは会うことができ、演奏や談義をした」と交流があったことが竹友回顧録に書かれている。山崎美也はこの笹尾竹之都の弟子にあたる。
 長谷検校も幼い頃から盲目で、宮崎勾当に師事し、のちに三味線に改良を加えて九州地歌を大成した人物である。弟子に川瀬里子(旧姓 中山)、宮城道雄、中島雅楽之都らがいる。そして、この川瀬里子からも山崎美也は学んでいた。 
 つまるところ、川瀬家を縁にして山崎竹隠と美也は出会ったということである。ちなみに山口四郎の妻・千枝は川瀬里子の姪にあたる。このようなことからも、川瀬家・山口家・山崎家は、単なる同門というよりも、非常に近しい間柄であったことが伺える。

【山崎竹隠・美也 相関図】
山崎竹隠・美也 相関図、尺八修理工房幻海
↑画像クリックで拡大

竹隠の尺八

 次に山崎竹隠の尺八についての考察である。上記で少し述べたように竹隠の楽器は、地無し・地盛り・地塗りと3種類の尺八がある。
 楽器の評価については個々人の考え方もあるであろうが、私の聴いた範囲(所持している、あるい吹いたことのある人)では、共通して高い評価を得ているようである。中には「本曲も三曲も、現代曲でさえもちゃんと吹くことができる、この(音の)バランス感覚はすごい」とまで言われている。私個人としては、四郎管と琴童管の中間といった認識をしており、「四郎管ほどクセはなく、琴童管ほど素直ではない。しかし非常に面白い音のなる楽器」だと思っている。
 内部の作りは純粋な地無しよりも地盛りや広作り的なものが多いように思う。これらの作り方は、非常に手間暇が掛かり、一本一本を大切に調律していたであろうことが伺える。それでいて、あまり商売気はなかったようで、知人らから集めたエピソードによれば、タダで譲っていたことも多かったようだ。ただ、後年はなかなかな高額で販売していたこともあったようではあるが…。この辺りは相手によるのかもしれない。
 外見的特徴としては、焼印に号の他に花押があり、また楽器自体に金銀蒔絵や色漆などで銘や製作年度を記したものも多いようである。この蒔絵による加飾などを観察するに興味深いことが見つかった。

竹隠と竹翁

山崎竹隠と荒木竹翁の花押、尺八修理工房幻海 
(資料提供:田中氏)

 上記の花押(かおう)を見て、まず思うことは「非常によく似ている?もしくは同じものだろうか?」ということではないだろうか。
 だが、この二つは別人によるものである。左は山崎竹隠、右は荒木竹翁(2代古童)。時代的にもニアミスで、これまで意識すらしていなかった2名の関係に、もしかしたら何かしらの接点や共通点があったのかもしれない。そんなことを少ない情報の中から考察してみたいと思う。

 そもそも、私が山崎竹隠について調べはじめたきっかけは、右の荒木竹翁の花押を見てからである。
 最初は、この花押は山崎竹隠のもので、荒木竹翁作の尺八(焼印がなかった)を何かしらの経緯で手に入れ、焼印がなかったので後世のためにも、それを証明するために”書付た”のだと考えていた。花押については、共通点も多いことから書き手の熟練度による変化・簡略化(こういったことはよくある)だろうと考えたのだ。
 もしそうだとしたならば、山崎竹隠の製管に荒木竹翁が直接か(年齢的にはギリギリ可能性がある)、楽器を通しての間接かは解らないが、影響を与えていた証拠になりえる。演奏の三代荒木古童・川瀬順輔、製管の三浦琴童とはまた別の後継系統の可能性である。
 しかし、持ち主の田中氏とのディスカッションを重ねるとどうやらこの竹は「荒木家に伝わってきたもの」であり、竹隠を経由はしていないということが判明した。また、改めて花押やその周辺などを観察するに、二つが別人の作であることが解ってきた。

 花押は、それ単体で印鑑やサインの代わりとなる個人を現すシンボルであるが、これを読み解くためには、いくつかのルールがある事を知っておく必要がある。それは…

・草書体を図案化したもの
・名前などの一文字を図案化したもの
・名前や号など、複数の文字を簡略・合成して作ったもの
・天地線を用いたもの(徳川家康が用いたことで有名)
・その他、動植物などを図案化したもの(織田信長など)

と、いったところである。もちろんこれ以外にもあるし、これらを複合的に混ぜ合わせたものもある。

 さて、このルールを頭の片隅に置きつつ、二つの花押の画像を見比べてみると明確な違いがあることに気付く。
 解りやすい方で、まず右の竹翁の花押。これはあきらかに号・竹翁の”2文字を簡略・合成”した形である。上部に”竹”という文字があり、下部に”翁”の簡略化した文字が隠れている。この翁の簡略は、2文字の場合の書き癖にも出ているので比較すると解りやすい。
荒木竹翁の花押説明、尺八修理工房幻海 荒木竹翁(古童)の文字、尺八修理工房幻海 (左:説明、右:竹翁2文字の場合)

 次に竹隠の花押であるが、これは竹と隠(あるいは陰)の2文字の簡略合成に天地線を足した複合的な図案になっている。
 まず、上部と中央部に位置する横線は天地線。それから竹という文字があり、竹の右側の縦線を利用するように”こざとへん”がある。”隠”の残りの字が点やはらいの中にあるハズなのだが、私には”隠”の急という字よりかは”陰”という字の右側のように見える。もしも、そうであるとするならば、号は”竹隠”ではなく”竹陰”であったのかもしれない(人物辞典を作成する時に聞き間違え・書き間違えた可能性は大いにありえる)。

山崎竹隠の花押、尺八修理工房幻海
(左:天地線、中:竹とこざとへん、右:隠(陰)の残り)

 と、以上のように二つの花押が別人であることが解ったかと思う。
 だが、この二つの花押に共通点が多いことは、自明の理である。”竹”の図案への取り入れ方もそうであるが、特に右下部のハネなどは特徴的で面白い。花押でも、字が異なるのにハネや字面がこのように似るのは珍しいのだ。
 このことから、竹隠が竹翁の花押を見る機会があり①参考にして花押をデザインした、もしくは②何かしらの意図をもって真似た、という可能性があるように感じられる。もちろん③全くの偶然で似ているだけ、という可能性もあるが…。
 そう考えると竹隠という号も何かしらを暗示しているようでなくはない。竹はもちろんのことだが、”隠(陰)”と”翁”という字にも共通する点が多い。例えば、”隠”には隠者や隠棲・隠遁といった世俗から離れた人といった意味があり、それらは”翁”という言葉のイメージにも、どこか似ているのだ。それが、「(竹翁への)尊敬に対する現れ」だったのか、他の意図だったのかは解らないが。
 この花押という少ない情報から読み取ったように、もしかしたら二人には何かしらの接点があったのかもしれない。この件については、さらなる情報が集まることを期待したいと思う。

竹隠と四郎

 山崎竹隠を知るために同時代・同門の人物として山口四郎の経歴と比較することは決して無駄ではないかと思う。この二人は上で記したように川瀬家と縁が深いだけでなく、製管あるいは目指した音色が似ているようにも思うし、交流関係もあったことからも、二人が互いに影響を与え合っていたのではないかと考えている。
 山口四郎といえば、竹友社から独立して竹盟社を興し、山口五郎(1992年人間国宝認定)や松村蓬盟という一流の演奏家を育てたことで有名である。また、そのような演奏家が吹奏していた尺八は、一躍、”四郎管”と呼ばれて珍重されるようになった。
 その尺八は、現代の物よりも内部が広い構造になっており、独特のふくよかな音色が鳴ることから”広作り”の代名詞のような扱いになっている(後期の作では一見狭いようだが、太い音が鳴るように計算されて作られている)。ただし、そのような構造から初心者が吹くには難しく、かつ音が少し暗めなことから「四郎管=吹き難い、現代には向かない」といった認識を持っている人も多く、残念ながら、安易に改造を施されている物も少なくない。
 かわって山崎竹陰は、千鳥会は開いたが竹友社から独立することはなく、また残念ながら有名な演奏家を育てるまでには至らなかった。その為、それほど全国規模での知名度を得るにはいたらなかった。しかし、そのことが返って現代まで、ちゃんとした状態の尺八を多く残すことになったことは、何が良いやら悪いやらといった感じか。
 社中としては山口四郎の竹盟社に成功例として軍配が上がるが、”製管師”としての心持ちから結果を見るなら果してどうだったのだろうか。

竹隠・美也師を知る方々のエピソード

【情報提供 隠居波平氏: ”今虚無僧”波平ナニを吹く
 約50年前、私は山崎美也師の神戸市垂水区海岸通りのご自宅へ毎週1回(確か水曜日)、稽古に通いました。私が通うころには残念ながら、竹隠師はすでにお亡くなりになられた後でした。
 ご自宅は平磯海岸に面しており、玄関からほんの10mほどですぐに砂浜です。稽古場はご自宅の2階で、浜に面しており、いつも潮風が入る気持ち良いお部屋でした。
 ご自宅に着くと、勝手に2階の稽古場へと上がります。玄関を入ると、いつも師の三弦が聴こえてきました。習うはずの曲を師はいつも真剣に予習なさっていました。私はその真剣な音色に引き込まれ、師が弾き終えられるまでは、恐れ多くて襖を開けることができませんでした。
 いつも、気の済むまで1対1で教わりました。きわめて長い時間の稽古です。稽古が進むと、娘の良枝先生を呼んで箏を弾かせ、師の三弦、私の尺八の三人で合奏し、納得のいくまで幾度も合わせました。「千代の鶯」と言う曲がありますが、毎週1回の稽古で半年間、この曲ばかり稽古していたため、今でもふとした時に突然頭に浮かび出ることがあります。
 ある時、美也師は私の竹の音を貧弱に思われていたようで、竹隠師の作られた尺八の中から一本「これをお使いなさい」と渡してくださいました。非常に音色が良く、今でもその竹は大切にしています。

[情報提供 木村幽月氏]
 山崎竹陰さんのことですか?
 私がご本人にお会いしたのは、9歳の時に父親に連れられて須磨のご自宅に訪れた時の一度だけです。残念ながら幼かったために印象は残っておりません。この時は竹陰さんの主催する千鳥会という研究会でした。
 その日、会のメンバーは10人程度おられたように思います。また竹陰さんの主催ではありませんが、同じような研究会として琴古会があり、ここでは何度か四郎先生も参加されたようです。

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