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楽曲解説 -その他-

 邦楽の様々な楽曲の由来や解説などを知り、より演奏を楽しむ為の考察です。

明暗対山派・対山流
(ミョウアンタイザンハ・タイザンリュウ)の尺八

 京都明暗寺は、明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、通称 神仏分離令)により、普化宗(普化正宗・虚無僧宗門)とともにが取り潰し解体されたが、明治21年に樋口対山(ヒグチタイザン、鈴木孝道)の活動によって京都東福寺の塔頭・善惠院に京都明暗教会として尺八根本道場を再興した。
京都明暗寺顕彰碑 尺八修理工房幻海 その後、樋口対山は諸流派から学んで本曲を整理・編曲し、三十二曲を制定して、尺八指南役として指導して行くうちに明暗対山派(明暗対山流)と呼ばれるようになる。ただし、樋口対山・小林紫山らは自らをそのように名乗ったことは一度もない。また過去の出版物(邦楽用語辞典などの学術書や各種CDなど)では、「明暗対山流(明暗対山派)」とどちらでもいいように表記されていたが、現在では「明暗対山派」と「明暗対山流」は別系統のものとして区別されるようになってしまった。
 のちに樋口対山は35世看首と追贈され、以来、連綿と受け継がれている。現在の本堂は、昭和44年に落成。本曲は、技巧的な奏法を極力廃した楔吹きで吹奏される。曲譜の表記は、ロツレチハイで記譜されている。昔は、明暗をミョウアンではなく、メイアンと呼んでいた。また昔は、1尺8寸のみではなく9寸や2尺なども用いられていたが、小泉止山以降の現在では8寸のみを用いることになっている。
 対山の交友には、垣根が無く明暗真法流の勝浦正山や琴古流の荒木竹翁・川瀬順輔(竹友翁)、都山流の中尾都山など多くの名人との付き合いがあった。

明暗の真義は虚無吹断、無韻の声を吹き、無韻の韻を聴く

明暗対山 指孔表、尺八修理工房幻海
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※明暗対山 指孔表が必要な方はお問い合せからご連絡くだされば、PDFかJPEG形式のファイルを差し上げます。

35世(34)=樋口対山(明暗対山、東福対山、明暗孝道、鈴木孝道、雅号に鈴木鯤蔵※、魚月)1856年~1914年
 鈴木は旧姓、本名は治助ののち孝道。名古屋に生まれ、始め浜松普大寺の玉堂梅山の流れを汲む、西園流・兼友西園(カネトモセイエン)に師事。その後、明暗真法流の尾崎真竜(オザキシンリョウ)、琴古流の荒木竹翁(アラキチクオウ、二世古童)、一閑流の滝川中和、九州博多一朝軒などに来歴し、本曲を学ぶ。
 一時は絶えた、明暗流の法系を明暗教会という形で再興した。ただし伝えた本曲は、普大寺系、琴古流系、および各地から収集した曲などを移曲したもので、もとの明暗寺とは異なる。その為、本人はあくまで終生「明暗のいち普化道者」という立場であった。
 弟子に小林紫山(コバヤシシザン)・谷北無竹(タニキタムチク)・清水静山(シミズセイザン)、宮川如山(ミヤガワニョザン)など。初代川瀬順輔(カワセジュンスケ、竹友)とも荒木竹翁のところに出入りの際に友好があったもよう。その功績が認められ、弟子達によって明暗看首34世のち35世を追贈される(当初は34世であったが、還俗した明暗寺の僧・自笑昨非を34世と加えた為、35世に改められた)。
 樋口対山の吹料とされる虎月作松風銘の一尺九寸は、非常に太い豪管であるが鳴りもよく、対山も豪快な吹き方をしていたのではないかと考えられる(如山が正山ではなく、対山についたエピソードに符合する)。
 墓所は大谷祖廟にある。天聲院考道對山居士。辞世の和歌は「うきふしの調べ重ねる笛の音を、松ふく風に残してぞゆく」。
※鈴木を鱸(スズキ)にかけ、号を鯤蔵とユーモアをいれたものだと思われる。鯤は古代中国の思想書「荘子」に出て来る想像上の大魚で、北方の海に住み、幾千里もの大きさで海中の王者であるという。

36世(35)=小林紫山(明暗紫山)1877年~1938年
 本名は治道。尺八の他に書道や弓道も精通していた。雅号に餘瀝斎(余瀝とは、酒器に残った滴の意)。尺八本曲を樋口対山に学び、のちに36世(35世)を継ぐ。例えば、後虚空あるいは虚空下巻を虎嘯虚空と名を変るなどの名称の変更は行なったが、誠実に師の流れを後世に伝えた。流派は名乗らず、ただ明暗尺八を貫き、実践した。武芸にも通じていたことから武断的な人物であったという。また石鎚神社の大阪伊予支部の大教正を務めている。
 著書に「尺八秘義」、「尺八本流/明暗尺八吹簫法基階(共著)」などの私書本、他に「楷書千字文」など。弟子に小泉止山(コイズミシザン)・富森虚山(トミモリキョザン)・明珍宗山(ミョウチンソウザン)、津野田露月(ツノダロゲツ)など。

(除世)=明珍宗山(宗敏)
 本名は義路。本業は、鎧兜を作ることだったという。小林紫山の弟子で誠実に師風を守った人。看首となる予定であったが、一時、四国へ帰郷中に除された。それ以来、京都の土は踏まなかったという。その後、四国明暗として明暗寺とは別に門を広めた。(注)

37世=谷北無竹(琅庵、無竹山人)1878~1957年
 本名は兼三郎。京都出身ではじめ鷹屋有竹(富山出身)から尺八の手ほどきを受け、そののち樋口対山に入門、対山没後は兄弟子である小林紫山にも師事。宗山没後、のちに37世を継ぎ、樋口対山の芸風を保つことに尽力する。尺八の他に書道や詩にも精通していた。そのことから文治的な人物であり、多くの人と交流、影響を与えた。樋口対山夫人曰く、紫山よりも無竹の方が対山の風をよくしている、とのこと。
 また多くの古管を収集し、後世に残した。明暗対山とのみ唱え、派とも流ともいわなかった(ただし、無くなる直前に”明暗対山流”と名乗っている資料も残る)。弟子に小泉止山、塚本竹甫(ツカモトチクホ、のち明暗対山流)、桜井無竹、前島竹堂、児島一吹(明暗41世)。交友に谷狂竹、浦本浙潮、俣野真龍など。明暗対山派の行く末に多少の不安をもっていたのか録音音源を多数残す。

38世=小泉止山(了庵)
 小林紫山・谷北無竹の弟子。全曲を暗譜していたという。弟子に福本閑斎、児島一吹、酒井玄心ら。

39世=福本閑斎(虚庵)
 小泉止山の弟子。現在、京都明暗寺に明暗寺の僧・自笑昨非からの史料が多く残るのは、福本閑斎からの支援(金銭面)が大きかったからともいう。

40世=芳村宗心(普庵)
 明暗普庵、忘竹軒、四国明暗。明珍宗山の弟子。明珍宗山没後、谷北無竹より明暗の許可状を授与、これにより分派していた四国明暗と明暗対山派が再合流することとなった。忘竹会を主催。CD本「明暗40世芳村宗心の世界」DVD「吹禅 吹け吹くな、鳴らせ鳴らすな」

41世=児島一吹(抱庵)
 明暗抱庵。谷北無竹・小泉止山の弟子。小さい頃はお琴をしていたらしいが、歌が苦手で一人で演奏できるものはないかと思っていたところ同輩の小柳(小泉?)一楽氏の紹介で、谷北無竹に尺八を学ぶことになった。無竹師から本曲は深夜まで学んだが(いつも習うところを筆でさらさらと書いてくれたという)、その後、本業の医師の仕事で静岡へ赴任。数年後に京へ戻るが、その直後に残念ながら無竹師が亡くなってしまったという。その後、一楽氏の薦めで小泉止山についた。
 抱庵師曰く、「八瀬にある無竹庵という茶室が稽古場で、その躙り口から入ると無竹師がいつも迎えいれてくれた。無竹師の音色は、一聴柔らかい音色だが、目の前で聴くとその音色に一本、筋金というか金鉄というか、ずっしりと重みのある音がしていた」という。

42世=酒井玄心
 忘竹会。はじめ小泉止山、のち芳村宗心の弟子。愛管は、小泉止山に頼んで富森虚山の弟子・白水が作ったものを手に入れ、芳村宗心に頼んで前明暗住職の安田天山の一筆を貰って金蒔絵された「虎嘯」と銘されたもの。

※明暗対山の中には、さらに門派あるいはグループがある。
九州明暗(清水静山の系統) 明暗露月派(九州明暗、津野田露月の系統、フホウエ譜)、四国明暗・忘竹会(明珍宗山・芳村宗心の系統)、明暗無竹派(谷北無竹の系統)、明暗止山派、明暗谷派(谷狂竹、西村虚空の系統、尺八のことは虚鐸と呼称、巨管を用いる)、興国寺普化尺八道場法燈会、古典尺八研究会(谷北門下の桜井無笛、のち弟子の門田笛空による研究会、長管太管を用いる)など

明暗対山 尺八 伝承曲

 西園流(普大寺系)、一朝軒(九州系)、琴古流などの諸流派の本曲を樋口対山が学び、整曲し移入している。全三十二曲

調子(本手調子) 一二三調 鉢返し曲 瀧落曲 三谷曲 九州鈴慕
志図ノ曲 善哉曲 奥州流し 打破の曲(打鼓曲) 秋田菅垣(秋田曲)
門開喜(門開曲) 轉菅垣 吾妻曲 肥後左司(筑紫鈴慕) 恋慕流し
深夜ノ曲 巣鶴(古伝巣鶴) 雲井獅子(雲井曲) 陸奥鈴慕 虚鈴
虚空(虚空上巻) 虚空下巻(虎嘯虚空、後虚空) 虚鐸(鳳鐸) 霧海ヂ
阿字(阿字曲) 曙調(黄鐘調) 鹿の遠音 鶴の巣籠 栄獅子
鳳叫虚空 龍吟虚空

 その他、外曲譜(三曲の譜面)も樋口対山直筆譜に残っており、当時はそのような曲が求められ、吹かれていたことが伺える。ただし、樋口対山師は名古屋から京へ移った当初、三曲の先生方と反りが合わず本曲を目指したというから、複雑な心境で合ったのではないかと思う。現在でも名古屋と大阪・京都(上方)、東京ではそれぞれ手や曲調が違うものが多く残っているので、そういったところで苦労したのかもしれない。今日では、本曲以外を吹くことをあまりよしとせず、明暗対山風による三曲の合奏が聴かれることはほぼない。
 また、正式に伝承されているわけではないが、瀧落の裏調子として桜落という曲もあるらしい。

明暗尺八解

 1916年に小林紫山によって記された明暗尺八吹奏の参考書。デジラルライブラリーで閲覧する事ができる。

閲覧先URL:近代デジタルライブラリー 「明暗尺八解」

注) 小林紫山は、亡くなった時に後継者を決めておらず、後に明暗教会会長と子息・小林喜久雄の推薦で36世明珍宗山に決まったが、何かしらの力が働き、除されてしまったという。
 地方在住で中立的な立場をとる富森虚山曰く、師(紫山)には生前から兄弟子である小泉止山に跡目を決めておいたほうがよいのではと進めたが「未だ早い」というようなことを云われたと語り。また、駆けつけた通夜の席には明珍宗山が働くのみで、いるべき小泉止山などの尺八の弟子らは何故かおらず、出棺間際にやってきた、とのこと。のちにこれらの動きは京都に法系が存続する事が望みであったのだろうと著書の中で示唆している。
 戸谷泥古著の「虚無僧尺八製管秘伝」の巻末「先達の横顔」の谷北無竹の項で無竹が小泉止山のことを「音が合わないが、とにかく全曲を暗譜している」と後継に指名した理由を述懐している。小林紫山の「未だ早い」という言葉もこのような意味であったのかもしれない。

注) 樋口対山と荒木竹翁:
 西園の門人に鈴木考道(のちの樋口対山)とい云う人があった。東福寺の管長・敬沖禅師が鈴木考道の尺八を聴き、これに三条を与えて荒木竹翁に就いて修行するように勧めた(敬沖禅師はもとは東京の海禅寺の住職だったので荒木竹翁の尺八を知っていた)。そこで、鈴木考道は海禅寺に寄宿して荒木竹翁に就いて教えを受けた(この時期に川瀬順輔と面識を持つ)。
 数曲の曲を教える際、荒木竹翁は鈴木考道からみだりに人に教えないという証文を取ってから教えたという(このことは棚瀬栗童がエピソード、証文の内容ともに知っていると述べたという。ただし、棚瀬栗童自身も琴古流の荒木古童ののちに西園流の内田紫山に学び、その後の竹翁没後には大阪で琴古流宗家を自称、さらには無想流宗家を称すなど無茶苦茶なところがあるため、どこまで信憑性があるかは解らない)。
 その後、棚瀬栗童が名古屋・西園流の岡田魯山を訪ねた時、岡田魯山から「(鈴木考道が)東京で古童(荒木竹翁)と本曲の交換をしてきた、と聞いた」といわれ、魯山へ証文を見た話を伝えたという。(三曲 市村富久筆、中塚竹禅遺稿)
 ただし、このような経緯を書くと樋口対山と荒木竹翁がその後、不仲になったように誤解されるが、決してそのようなことはない。ほとんど箱根の関を越える旅行をしなかった荒木竹翁だが、80歳ごろから度々、京都の樋口対山のもとへ遊びに行っている(初代 川瀬順輔 談)。流派や年齢が違っても英雄は英雄を知るということか

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